いる妻の弟を築地《つきじ》の家に訪ねるかした。時とすると横浜で商館の方へ勤めている自分の弟を訪ねることもあった。浜からはよく強い洋酒などを貰《もら》って来て、黄金色したその酒を小さい杯《コップ》に注《つ》ぎながら、日に透《すか》して見てはうまそうになめていた。
「浜の弟も、酒で鼻が真紅《まっか》になってら。こんらの酒じゃ、もう利《き》かねえというこんだ。金にしてよっぽど飲むらあ。」
「あの衆らの飲むのは、器量《はたらき》があって飲むだでいい。身上《しんしょう》もよっぽど出来たろうに。」
「何が出来るもんだ。それでも娘は二人とも大きくなった。男の子が一人欲しいようなことを言ってるけれど、やらずかやるまいか、まアもっと先へ寄ってからのことだ。」
 そのころから、父親はよく夢中で新聞の相場附けを見たり、夜深《よなか》に外へ飛び出して、空と睨《にら》めッくらをしたりしていた。朝から出て行って、一日帰らないようなこともあった。するうちに金がだんだん減って行った。四月たらずの居喰《いぐ》いで、目に見えぬ出銭《でぜに》も少くなかった。
「手を汚さないで、うまいことをしようたって駄目の皮だぞえ。為さあらまだ苦労が足りない。」下宿屋の主婦《あるじ》は留守にやって来ると、妻に蔭口を吐《つ》いた。そして、「お安さあもお安さあだ。これまで裸に剥《は》がれてこの上何をぬぐ気だえ。黙って見てばかりいずと、ちっと言ってやらっし。」と言ってたしなめた。母親は、切ないような気がして、黙っていた。
 母親は、押入れの葛籠《つづら》のなかから、子供の冬物を引っ張り出して見ていた。田舎から除《よ》けて持って来てた、丹念に始末をしておいた手織物が、東京でまた役に立つ時節が近づいて来た。その藍《あい》の匂いをかぐと、母親の胸には田舎の生活がしみじみ想い出された。
 父親は一日出歩いて晩方帰って来ると、こそこそと家へ上って、火鉢の傍に坐り込んだ。傍にお庄兄弟が、消し炭の火を吹きながら玉蜀黍《とうもろこし》を炙《あぶ》っていた。六つになる弟と四つになる妹とが、附け焼きにした玉蜀黍をうまそうに噛《かじ》っている。父親はお庄の真赤になって炙っている玉蜀黍を一つ取り上げると、はじ切れそうな実を三粒四粒指で※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《むし》って、前歯でぼつりぼつり噛《か》み始めた。四方《あたり》はもう
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