ら取った朝飯を済ましたり、お庄が持ち込んで行ったお茶や菓子を食べたりしてから、やがて十時ごろに帰って行った。
「それじゃ私はまた来るから……。」と、叔父は深いパナマの帽子を冠《かぶ》って、うとうとしている病人の枕頭《まくらもと》へ寄ると、低声《こごえ》に声をかけた。
 体を動かすことの出来ない病人は昨夜《ゆうべ》初めて特に院長の診察を受ける時、手を通しやすいように、濶《ひろ》くほどかれた白地の寝衣《ねまき》の広袖から、力ない手を良人の方へ延ばした。「私もこんな体になって、いつどんなことがあるか知れないで、夜分だけはどこへもお出なされないようにね。」と、水ッぽいような目で叔父の顔を眺めながら言った。
 叔父は頷《うなず》いて見せた。
「そのうちには阿母さんもきっと出て来るで。電報は遅くも昨夜《ゆうべ》のうちに着いているはずだからね。」
 お庄は母親の来るまで、病人の側に一人でいた。そして雑仕婦に手伝って、時々氷を取り換えたり、下《しも》の方の始末をしたりした。氷は頭と言わず、胸といわず幾個《いくつ》も当てられてあった。もう長いあいだの床摺《とこず》れも出来ていた。
「重い患者さんね。」と、雑仕婦は臀《しり》へ油紙を宛《あ》てがうときお庄に話しかけながら笑った。
「昨夜《ゆうべ》寝台へお載せ申すのが、大変でしたよ。」
 患者もきまりわるそうに力ない笑い方をした。
 家に箪笥にしまってある着物の話が出た。まだ仕立てたばかりで、仕着《しつ》けも取らない夏帯のことなどを、病人は寝ていて気にしはじめた。白牡丹《はくぼたん》で買ったばかりの古渡《こわた》りの珊瑚《さんご》の根掛けや、堆朱《ついしゅ》の中挿《なかざ》しを、いつかけるような体になられることやらと、そんなことまで心細そうに言い出した。
 お庄はこの叔母が、長いあいだ自分の物ばかりに金をかけて来たことを憶《おも》い出していた。母親の物を、叔父も父親と一緒に田舎の町で遊びに耽《ふけ》っていた時分、取り出して行った。叔父の学資を、父親は少しは助《す》けたこともあった。昔から油を絞って暮して来た母親の実家《さと》は、その時分村の大火に逢って、家も帑蔵《どぞう》も灰になってから、叔父は残っていた少しばかりの田地を売って、やっと学校へ通っているのであった。その代りにお庄の支度を叔父が引き受けることになっていた。叔父は時々それを言い
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