こへ移るような手続きが出来てしまった。
 下宿からは、さしあたり必要な古火鉢や茶呑《ちゃの》み茶碗《ぢゃわん》、雑巾のような物が運ばれ、父親は通りからランプや油壺《あぶらつぼ》、七輪のような物を、一つ一つ買っては提《さ》げ込んで来た。母親は木の香の新しい台所へ出て、ゴシゴシ働いていた。
 その間お庄は、乳呑み児を背《せなか》に縛りつけられて、下宿と引っ越し先との間を、幾度となく通《かよ》っていた。

     四

 点燈《ひともし》ごろにそこらがようよう一片着き片着いた。
 広い田舎家の奥に閉じ籠《こも》って、あまり外へ出たことのない母親は、近所の女房連の集まっている井戸端へ出て行くのが、何より厭《いや》であった。子供たちも行き詰った家のなかを、そっちこっちうろつきながら、何にもない台所へ出て来ては水口のところにぴったりくっついて、暮れて行く路次を眺めていた。お庄は出たり入ったりして、そこらの門口にいる娘たちの頭髪《あたま》や身装《みなり》を遠くからじろじろ見ていた。
 父親は買立てのバケツを提げて、水を汲《く》みに行ったり、大きな躯《からだ》で七輪の前にしゃがんで、煮物の加減を見たりした。
「こんな流しは私《わし》ア初めて見た。東京には田舎のような上流《うわなが》しはありましねえかね。」
「ないこともないが田舎は何でも仕掛けが豪《えら》いで。まア東京に少し住んで見ろ。田舎へなぞ帰ってとてもいられるものではないぞ。」
「何だか知らねえが、私は家のような気がしましねえ。」母親は滌《すす》いでいた徳利《とくり》をそこに置いたまま、何もかも都合のよく出来ている、田舎のがっしりした古家をなつかしく思った。
 父親が、明るいランプの下でちびちび酒を始めた時分に、子供たちはそこにずらりと並んで、もくもく蕎麦《そば》を喰いはじめた。母親は額に汗をにじませながら、荒い鼻息の音をさせて、すかすかと乳を貧《むさぼ》っている碧児《みずご》の顔を見入っていた。
「今やっと晩御飯かえ。」と、下宿の主婦《あるじ》は裏口から声かけて上って来た。
「皆な今まで何していただえ。」
「お疲れなさんし。」母親は重い調子でお辞儀をして、「何だか馴れねえもんだでね。」と、いいわけらしく言った。
「それでもお蔭で、どうかこうか寝るところだけは出来ましたえ。まア一つ。」と父親は猪口《ちょく》をあけて差した。

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