私は左手の漂渺《ひょうびょう》とした水霧《すいむ》の果てに、虫のように簇《むらが》ってみえる微かな明りを指しながら言った。
「ちがいますがな。大阪はもっともっと先に、微かに火のちらちらしている他《あれ》ですがな」そう言って彼はまた右手の方を指しながら、
「あれが和田岬《わだみさき》です」
「尼《あま》ヶ|崎《さき》から、あすこへ軍兵の押し寄せてくるのが見えるかしら」私は尼ヶ崎の段を思いだしながら言った。
「あれが淡路《あわじ》ですぜ。よくは見えませんでしょうがね」
 私は十八年も前に、この温和な海を渡って、九州の温泉へ行ったときのことを思いだした。私は何かにつけてケアレスな青年であったから、そのころのことは主要な印象のほかは、すべて煙のごとく忘れてしまったけれど、その小さい航海のことは唯今のことのように思われていた。その時分私は放縦《ほうしょう》な浪費ずきなやくざもののように、義姉に思われていた。
 私はどこへ行っても寂しかった。そして病後の体を抱いて、この辺をむだに放浪していた、そのころの痩せこけた寂しい姿が痛ましく目に浮かんできた。今の桂三郎のような温良な気分は、どこにも見出せなか
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