海辺に、瀟洒《しょうしゃ》な別荘や住宅が新緑の木立のなかに見出《みいだ》された。私はまた洗練された、しかしどれもこれも単純な味しかもたない料理をしばしば食べた。豪華な昔しの面影を止《とど》めた古いこの土地の伝統的な声曲をも聞いた。ちょっと見には美しい女たちの服装などにも目をつけた。
 この海岸も、煤煙の都が必然|展《ひら》けてゆかなければならぬ郊外の住宅地もしくは別荘地の一つであった。北方の大阪から神戸兵庫を経て、須磨《すま》の海岸あたりにまで延長していっている阪神の市民に、温和で健やかな空気と、青々した山や海の眺めと、新鮮な食料とで、彼らの休息と慰安を与える新しい住宅地の一つであった。
 桂三郎は、私の兄の養子であったが、三四年健康がすぐれないので、勤めていた会社を退いて、若い細君とともにここに静養していることは、彼らとは思いのほか疎々《うとうと》しくなっている私の耳にも入っていたが、今は健康も恢復《かいふく》して、春ごろからまた毎日大阪の方へ通勤しているのであった。彼の仕事はかなり閑散であった。
 どこを見ても白チョークでも塗ったような静かな道を、私は莨《たばこ》をふかしながら、かなり歯の低くなった日和《ひより》下駄をはいて、彼と並んでこつこつ歩いた。そこは床屋とか洗濯屋とかパン屋とか雑貨店などのある町筋であった。中には宏大な門構えの屋敷も目についた。はるか上にある六甲《ろっこう》つづきの山の姿が、ぼんやり曇《うる》んだ空に透けてみえた。
「ここは山の手ですか」私は話題がないので、そんなことを訊いてみた。もちろん私一箇としては話題がありあまるほどたくさんあった。二人の生活の交渉点《こうしょうてん》へ触れてゆく日になれば、語りたいことや訊きたいことがたくさんあった。三十年以前に死んだ父の末子であった私は、大阪にいる長兄の愛撫《あいぶ》で人となったようなものであった。もちろん年齢にも相当の距離があったとおりに、感情も兄というよりか父といった方が適切なほど、私はこの兄にとって我儘《わがまま》な一箇の驕慢児《きょうまんじ》であることを許されていた。そして母の生家を継ぐのが適当と認められていた私は、どうかすると、兄の後を継ぐべき運命をもっているような暗示を、兄から与えられていた。もちろん私自身はそれらのことに深い考慮を費やす必要を感じなかった。私は私であればそれでいいと思
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