まう。
 新吉は茶を二、三杯飲むと、ツト帳場へ出た。大きな帳面を拡げて、今日の附揚《つけあ》げをしようとしたが、妙に気がイライラして、落ち着かなかった。おそろしい自堕落な女の本性が、初めて見えて来たようにも思われた。
「莫迦にしてやがる。もう明日からお断わりだ。」

     二十八

 療治が済むと、お国は自分の財布から金をくれて按摩を返した。近所ではもうパタパタ戸が閉《しま》るころである。
 お国はいつまでも、ぽつねんと火鉢の前に坐っていたが、新吉も十一時過ぎまで帳場にへばり着いていた。
 寝支度に取りかかる時、二人はまた不快《まず》い顔を合わした。新吉はもう愛想がつきたという顔で、ろくろく口も利かず、蒲団のなかへ潜《もぐ》り込んだ。お国は洋燈《ランプ》を降したり、火を消したり、茶道具を洗ったり、いつもの通り働いていたが、これも気のない顔をしていた。
 寝しなに、ランプの火で煙草を喫《ふか》しながら、気がくさくさするような調子で、「アア、何だか厭になってしまった。」と溜息を吐《つ》いた。「もうどっちでもいいから、早く決まってくれればいい。裁判が決まらないうちは、どうすることも出来やしない。ね、新さん、どうしたんでしょうね。」
 新吉は寝た振りをして聴いていたが、この時ちょっと身動きをした。
「解んねえ。けど、まア入るものと決めておいて、自分の体の振り方をつけた方がよかないかね。私《あっし》あそう思うがね。」と声が半分蒲団に籠《こも》っていた。「そうして出て来るのを待つんですね。」
「ですけど、私だって、そう気長に構えてもいられませんからね。」と寝衣姿《ねまきすがた》のまま自分の枕頭《まくらもと》に蹲跪《つくば》って、煙管をポンポン敲いた。「あの人の体だって、出て来てからどうなるか解りゃしない。」
 新吉はもう黙っていた。
 翌日《あした》目を覚まして見ると、お国はまだ寝ていた。戸を開けて、顔を洗っているうちに、ようやく起きて出た。
 朝飯が済んでしまうと、お国は金盥《かなだらい》に湯を取って、顔や手を洗い、お作の鏡台を取り出して来て、お扮飾《つくり》をしはじめた。それが済むと、余所行《よそゆ》きに着替えて、スッと店頭《みせさき》へ出て来た。
「私ちょいと出かけますから……。」と帳場の前に膝《ひざ》を突いて、どこへ行くとも言わず出てしまった。
 新吉はどこか気がかりのように思ったが、黙って出してやった。小僧連は、一様に軽蔑《けいべつ》するような目容《めつき》で出て行く姿を見送った。
 お国は昼になっても、晩になっても帰らなかった。新吉は一日不快そうな顔をしていた。晩に一杯飲みながら、新吉は女の噂《うわさ》をし始めた。
「どうせ彼奴《あいつ》は帰って来る気遣いないんだから、明朝《あした》から皆《みんな》で交《かわ》り番こに飯をたくんだぞ。」
 小僧はてんでに女の悪口《あっこう》を言い出した。内儀さん気取りでいたとか、お客分のつもりでいるのが小面憎《こづらにく》いとか、あれはただの女じゃあるまいなどと言い出した。
 新吉はただ苦笑いしていた。

     二十九

 二月の末――お作が流産をしたという報知《しらせ》があってからしばらく経って、新吉が見舞いに行った時には、お作はまだ蒼い顔をしていた。小鼻も目肉《めじし》も落ちて、髪もいくらか抜けていた。腰蒲団など当てて、足がまだよろつくようであった。
 胎児は綺麗な男の子であったとかいうことである。少し重い物――行李を棚から卸《おろ》した時、手を伸ばしたのが悪かったか知らぬが、その中には別に重いというほどの物もなければ、棚がさほど高いというほどでもない。が何しろ身体が※[#「兀+王」、第3水準1−47−62、36−上段−8]弱《ひよわ》いところへ、今年は別して寒《かん》じが強いのと、今一つはお作が苦労性で、いろいろの取越し苦労をしたり、今の身の上を心細がったり、表町の宅《うち》のことが気にかかったり、それやこれやで、あまりに神経を使い過ぎたせいだろう……というのがいいわけのような愚痴のような母親の言い分であった。
 お作は流産してから、じきに気が遠くなり、そこらが暗くなって、このまま死ぬのじゃないかと思った、その前後の心持を、母親の説明の間々へ、喙《くち》を容《い》れて話した。そうしてもう暗いところへやってしまったその子が不憫《ふびん》でならぬと言って泣き出した。いくら何でも自分の血を分けた子だのに、顔を見に来てくれなかったのは、私はとにかく、死んだ子が可哀そうだと怨《うら》んだ。
 新吉も詳しい話を訊いてみると、何だか自分ながらおそろしいような気もした。そういう薄情なつもりではなかったが、言われて見ると自分の心はいかにも冷たかったと、つくづくそう思った。
「私《あっし》はまた、ど
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