たせいでござりますか、大変に田舎を寂しがりまして……それに、だんだん産月《うみづき》も近づいて参りますと、気が鬱《ふさ》ぐと見えまして、もう自分で穴掘って入《へえ》るようなことばかり言っておるでござります。」とそれからお作が亭主や家思《うちおも》いの、気立ての至って優しいものだということを説き出した。前《ぜん》に奉公していた邸《やしき》で、ことのほか惜しまれたということ、稚《ちいさ》い時分から、親や兄に、口答え一つしたことのない素直な性質だということも話した。生来《うまれつき》体が弱いから、お産が重くでもあったら、さぞ応《こた》えるであろうと思って、朝晩に気をつけて大事にしていること、牛乳を一合ずつ飲まして、血の補いをつけておることなども話した。産れる子の初着《うぶぎ》などを、お作に持って来さして、お産の経験などをくどくどと話した。
 新吉は「ハ、ハ。」と空返辞《からへんじ》ばかりしていたが、その時はもう酒が大分廻って来た。
「お店の方も、追い追い御繁昌《ごはんじょう》で、誠に結構でござります。」母親は話を変えた。
「お蔭でまアどうかこうか……。」と新吉は大概|肴《さかな》を荒してしまって、今度は莨《たばこ》を喫《す》い出した。そうして気忙しそうに時計を引き出して、「もう四時だ。」
「マア、あなたようござりましょう。春初めだからもっと御ゆっくりなすって……そのうちには兄も帰ってまいります。」と母親は銚子を替えに立った。
 二人とも黙ってうつむいてしまった。障子の日が、もう蔭ってしまって、部屋には夕気《ゆうけ》づいたような幽暗《ほのぐら》い影が漂うていた。風も静まったと見えて、外はひっそとしていた。
「今日は、真実《ほんとう》にいいんでしょう。」お作はおずおず言い出した。
「商人が家《うち》を明けてどうするもんか。」と新吉は冷たい酒をグッと一ト口に飲んだ。
 それからかれこれ一時間も引き留められたが、暇《いとま》を告げる時、お作は低声《こごえ》で、「お産の時、きっと来て下さいよ。」と幾度も頼んだ。
 店頭《みせさき》へ送って出る時、目に涙が一杯溜っていた。

     二十七

 腕車《くるま》がステーションへ着くころ、灯《ひ》がそこここの森蔭から見えていた。前の濁醪屋《どぶろくや》では、暖《あった》かそうな煮物のいい匂《にお》いが洩れて、濁声《だみごえ》で談笑している労働者の影も見えた。寒い広場に、子守が四、五人集まって、哀れな調子の唄《うた》を謳《うた》っているのを聞くと、自分が田舎で貧しく育った昔のことが想い出される。新吉はふと自分の影が寂しいように思って、「己の親戚《みうち》と言っちゃ、まアお作の家だけなんだから……。」と独り言を言っていた。
 汽車は間もなく出た。新吉は硬いクッションの上に縮かまって横になると、じきに目を瞑《つぶ》った。中野あたりまでとりとめもなくお作のことを考えていた。あまり可愛いと思ったこともないが、何だか深く胸に刻み込まれてしまったようにも思えた。そのうちに、ウトウトと眠ったかと思うと、東京へ入るに従って、客車が追い追い雑踏して来るのに気がついた。
 飯田町のステーションを出るころは、酔《え》いがもうすっかり醒《さ》めていた。新吉は何かに唆《そその》かされるような心持で、月の冴《さ》えた広い大道をフラフラと歩いて行った。
 店では二人の小僧が帳場で講釈本を読んでいた。黙って奥へ通ると、茶の室《ま》には湯の沸《たぎ》る音ばかりが耳に立って、その隅ッこの押入れの側で、蒲団を延べて、按摩《あんま》に腰を揉《も》ましながら、グッタリとお国が正体もなく眠っていた。後向きになった銀杏返《いちょうがえ》しの首が、ダラリと枕から落ちそうになって、体が斜めに俯伏《うつぶ》しになっていた。立ち働く時のキリリとしたお国とは思えぬくらいであった。貧相な男按摩は、薄気味の悪い白眼を剥《む》き出して、折々|灯《ひ》の方を瞶《みつ》めていた。
 坐って鉄瓶を下す時の新吉の顔色は変っていた。煙管《きせる》を二、三度、火鉢の縁に敲《たた》きつけると、疎《うと》ましそうに女の姿を見やって、スパスパと莨を喫《す》った。するうちお国は目を覚ました。
「お帰りなさい。」と舌のだらけたような調子で声かけた。「少し御免なさいよ。あまり肩が凝ったもんですから……あなたもお疲れでしょう。後で揉んでおもらいなすってはどうです。」
 新吉は何とも言わなかった。
 しばらくすると、お国は懈《だる》そうに、うつむいたまま顔を半分こっちへ向けた。
「どうでした、お作さんは……。」
「イヤ、別に変りはないようです。」新吉は空を向いていた。
 お国はまだ何やら、寝ぼけ声で話しかけたが、後は呻吟《うめ》くように細い声が聞えて、じきにウトウトと眠りに陥《お》ちてし
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