さい輪飾りの根松の緑に、もう新しい年の影が見えた。
 お国は近所の髪結に髪を結わして、小紋の羽織など引っかけて、晴れ晴れした顔で、長火鉢の前に坐っていた。
 九時過ぎに、店の方はほぼ形《かた》がついた。新吉は小僧二人に年越しのものや、蕎麦《そば》を饗応《ふるも》うてから、代り番こに湯と床屋にやった。店も奥もようやくひっそりとして来た。油の乏しくなった燈明がジイジイいうかすかな音を立てて、部屋にはどこか寂しい影が添わって来た。黝《くろず》んだ柱や、火鉢の縁に冷たい光沢《つや》が見えた。底冷えの強い晩で、表を通る人の跫音《あしおと》が、硬く耳元に響く。
 新吉は火鉢の前に胡坐《あぐら》をかいて、うつむいて何やら考え込んでいた。まだ真《ほん》の来たてのお作と一所に越した去年の今夜のことなど想い出された。
「何をぼんやり考えているんです。」とお国は銚子《ちょうし》を銅壺《どうこ》から引き揚げて、きまり悪そうな手容《てつき》で新吉の前に差し出した。
 新吉は、「何、私《あっし》や勝手にやるで……。」とその銚子を受け取ろうとする。
「いいじゃありませんか。酒のお酌《しゃく》くらい……。」お国は新吉に注《つ》いでやると、「私もお年越しだから少し頂きましょう。」と自分にも注いだ。
 新吉は一杯飲み干すと、今度は手酌でやりながら、「どうもいろいろお世話さまでした。今年は私もお蔭で、何だか年越しらしいような気がするんで……。」

     二十二

 お国は手酌で、もう二、三杯飲んだ。新吉は見て見ぬ振りをしていた。お国の目の縁が少し紅味をさして、猪口《ちょく》をなめる唇にも綺麗な湿《うるお》いを持って来た。睫毛《まつげ》の長い目や、生《は》え際《ぎわ》の綺麗な額の辺《あたり》が、うつむいていると、莫迦《ばか》によく見える。が、それを見ているうちにも新吉の胸には、冷たい考えが流れていた。この三、四日、何だか家中《うちじゅう》引っ掻き廻されているような、一種の不安が始終|頭脳《あたま》に附き絡《まと》うていたが、今夜の女の酒の飲みッぷりなどを見ると、一層不快の念が兆《きざ》して来た。どこの馬の骨だか……という侮蔑《ぶべつ》や反抗心も起って来た。
 お国は平気で、「どうせ他人のすることですもの、お気には入らないでしょうけれど、私もこの暮は独りで、つまりませんよ。あの二階の部屋に、安火《あんか》に当ってクヨクヨしていたって始まらないから、気晴しにこうやってお手伝いしているんです。春が来たって、私は何の楽しみもありゃしない。」
「だが、そうやって私《あっし》のとこで働いていたってしようがないね。私は誠に結構だけれど、あんたがつまらない。」と新吉はどこか突ッ放すような、恩に被《き》せるような調子で言った。
 お国は萎《しょ》げたような顔をして黙ってしまった。そうして猪口を下において何やら考え込んだ。その顔を見ると、「新さんの心は私にはちゃんと見え透いている。」と言うようにも見えた。新吉も気が差したように黙ってしまった。
 しばらくしてから、女は銚子を持ちあげて見て、「お酒はもう召し食《あが》りませんか。」と叮寧《ていねい》な口を利く。
「小野さんも、この春は酒が飲めねえで、弱っているだろう。」と新吉はふと言い出した。
 それから二人の間には、小野の風評《うわさ》が始まった。お国はあの人と知っているのは、もう二、三年前からのことで、これまでにも随分いい加減な嘘《うそ》を聞かされた。そのころは自分もまだ一向|初《うぶ》である若い書生肌の男と一緒に東京へ出て来た。宅《うち》は田舎で百姓をしている。その男が意気地《いくじ》がなかったので、長い間苦労をさせられた。それから間もなく小野と懇意になった。会社員だという触込みであったが、覩《み》ると聴くとは大違いで、一緒に世帯を持って見ると、いろいろの襤褸《ぼろ》が見えて来た。金は時たま三十四十と攫《つか》んでは来るが、表面《うわべ》に見せているほど、内面は気楽でなかった。才は働くし、弁口もあるし、附いていれば、まさかのめって死ぬようなこともあるまいけれど、何だか不安でならなかった。着物も着せてくれるし、芝居も見せてくれるが、それはその場きりで、前途《さき》の見越しがつかぬから、それだけで満足の出来よう道理がない……とお国はシンミリした調子で、柄にないジミな話をし始めた。
「私|真実《ほんとう》にそう思うわ。明けるともう二十五になるんだから、これを汐《しお》に綺麗に別れてしまおうかと……。」
 新吉は黙っていた。聞いているうちに、何だか女というものの心持が、いくらか胸に染《し》みるようにも思われた。

     二十三

 正月になってから、新吉は一度お作を田舎に訪ねた。
 町が寂れているので、ここは春らしい感じもしなかった
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