騒《ざわ》ついて聞える。新吉は何だか長閑《のどか》なような心持もした。こうして坐っていると、妙に心に空虚が出来たようにも思われた。長い間の疲労が一時に出て来たせいもあろう。いくらか物を考える心の余裕《ゆとり》がついて来たのも、一つの原因であろう。
お作は何《なん》かの話のついでに、「……花の咲く時分に、一度二人で田舎へ行きましょうか。」と言い出した。
新吉は黙ってお作の顔を見た。
「別に見るところといっちゃありゃしませんけれど、それでも田舎はよござんすよ。蓮華《れんげ》や蒲公英《たんぽぽ》が咲いて……野良《のら》のポカポカする時分の摘み草なんか、真実《ほんと》に面白うござんすよ。」
「気楽言ってらア。」と新吉は淋しく笑った。「お前の田舎へ行くもいいが、それよか自分の田舎へだって、義理としても一度は行かなけアなんねえ。」
「どうしてまた、七年も八年もお帰んなさらないんでしょう。随分だわ。」お作は塩煎餅の、くいついた歯齦《はぐき》を見せながら笑った。
「そんな金がどこにあるんだ。」新吉は苦い顔をする。「一度行けア一月や二月の儲《もう》けはフイになっちまう。久しぶりじゃ、まさか手ぶらで帰られもしねえ。産《うま》れ故郷となれア、トンビの一枚も引っ張って行かなけアなんねえし。……第一店をどうする気だ。」
お作は急に萎《しょ》げてしまう。
「こっちやそれどころじゃねえんだ。真実《ほんとう》だ。」
新吉はガブリと茶を飲み干すと、急に立ち上った。
十四
桜の繁《しげ》みに毛虫がつく時分に、お作はバッタリ月経《つきのもの》を見なくなった。お作は冷え性の女であった。唇《くちびる》の色も悪く、肌《はだ》も綺麗《きれい》ではなかった。歯性も弱かった。菊が移《すが》れるころになると、新吉に嗤《わら》われながら、裾《すそ》へ安火《あんか》を入れて寝た。これという病気もしないが時々食べたものが消化《こな》れずに、上げて来ることなぞもあった。空風《からかぜ》の寒い日などは、血色の悪い総毛立ったような顔をして、火鉢に縮かまっていた。少し劇《はげ》しい水仕事をすると、小さい手がじきに荒れて、揉《も》み手をすると、カサカサ音がするくらいであった。新吉は、晩に寝るとき、滋養に濃い酒を猪口《ちょく》に一杯ずつ飲ませなどした。伝通院前に、灸点《きゅうてん》の上手があると聞いたので、それをも試みさした。
「今からそんなこってどうするんだ。まるで婆さんのようだ。」と新吉は笑いつけた。
お作はもうしわけのないような顔をして、そのたびごとに元気らしく働いて見せた。
こうした弱い体で、妊娠したというのは、ちょっと不思議のようであった。
「嘘《うそ》つけ。体がどうかしているんだ。」と新吉は信じなかった。
「いいえ。」とお作は赤い顔をして、「大分|前《さき》からどうも変だと思ったんです。占って見たらそうなんです。」
新吉は不安らしい目色《めつき》で、妻の顔を見込んだ。
「どうしたんでしょう、こんな弱い体で……。」といった目色《めつき》で、お作もきまり悪そうに、新吉の顔を見上げた。
それから二人の間に、コナコナした湿《しめ》やかな話が始まった。新吉は長い間、絶えず悪口《あっこう》を浴びせかけて来たことが、今さら気の毒なように思われた。てんで自分の妻という考えを持つことの出来なかったのを悔いるような心も出て来た。ついこの四、五日前に、長湯をしたと言って怒ったのが因《もと》で、アクザモクザ罵《ののし》った果てに、何か厄介者《やっかいもの》でも養っていたようにくやしがって、出て行け、今出て行けと呶鳴《どな》ったことなども、我ながら浅ましく思われた。
それに、妊娠でもしたとなると、何だか気が更《あらた》まるような気もする。多少の不安や、厭な感じは伴いながら、自分の生活を一層確実にする時期へ入って来たような心持もあった。
お作はもう、お産の時の心配など始めた。初着《うぶぎ》や襁褓《むつき》のことまで言い出した。
「私は体が弱いから、きっとお産が重いだろうと思って……。」お作は嬉しいような、心元ないような目をショボショボさせて、男の顔を眺めた。新吉はいじらしいような気がした。
お作は十二時を聞いて、急に針を針さしに刺した。めずらしく顔に光沢《つや》が出て、目のうちにも美しい湿《うるお》いをもっていた。新吉はうっとりした目容《めいろ》で、その顔を眺《なが》めていた。
十五
お作は婚礼当時と変らぬ初々《ういうい》しさと、男に甘えるような様子を見せて、そこらに散った布屑《きれくず》や糸屑を拾う。新吉も側《そば》で読んでいた講談物を閉じて、「サアこうしちアいられねえ。」と急《せ》き立てられるような調子で、懈怠《けだる》そうな身節《みぶし》がミリミリ言う
前へ
次へ
全25ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング