》られているようで、この一月ばかりの新吉の胸の悩ましさというものは、口にも辞《ことば》にも出せぬほどであった。その苦しい思いが、何でお作に解ろう。お作はとてもそういうことを打ち明ける相手ではないと、そう決めていた。
「それで、私が帰れば、お国さんは出てしまうんですの。」お作はおずおず訊いた。
 新吉は、口のうちで何やら曖昧《あいまい》なことを言っていた。
「義理だから、己から出て行けと言うわけにも行かないが、いずれお国にも考えがあるだろう……。それでお前はいつごろ帰って来られるね。」
「もう一週間も経てば、大概いいだろうと思うですがね……でも、お国さんがいては、私何だかいやだわ。阿母《おっか》さんもそう言うんですわ。小石川の叔母さんだけは、それならばなおのこと、速く癒《なお》って帰らなければいけないと言うんですけれど……。」
 新吉は、二人の間《なか》が、もうそういう危機に迫っているのかと、胸がはらはらするようであった。
「どちらにしても、お前が速く癒ってくれなければ……。」と気休めを言っていたが、そうテキパキ事情の決まるのが、何だかいやなような気がした。
 新吉と別れてから、十日目にお作は嫂に連れられて、表町へ帰って来た。ちょうどそれが朝の十時ごろで、三月と言っても、まだ余寒のきびしい、七、八日ごろのことであった。腕車《くるま》が町の入口へ入って来ると、お作は何とはなし気が詰るような思いであった。町の様子は出て行った時そのままで、寂れた床屋の前を通る時には、そこの肥った禿頭《はげあたま》の親方が、細い目を瞠《みは》って、自分の姿を物珍らしそうに眺めた。蕎麦屋《そばや》も荒物屋も、向うの塩煎餅屋《しおせんべいや》の店頭《みせさき》に孫を膝に載せて坐っている耳の遠い爺《じい》さんの姿も、何となくなつかしかった。
 腕車《くるま》を降りると、お作はちょいと嫂を振り顧《かえ》って躊躇《ちゅうちょ》した。
「姉さん……。」と顔を赧《あか》らめて、嫂から先へ入らせた。

     三十一

 店には増蔵が一人いるきりで、新吉の姿が見えなかった。奥へ通ると、水口《みずぐち》の方で、蓮葉《はすは》なような口を利いている女の声がする。相手は魚屋の若い衆らしい。干物《ひもの》のおいしいのを持って来て欲しいとか、この間の鮭《しゃけ》は不味《まず》かったとか、そういうようなことを言ってい
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