る労働者の影も見えた。寒い広場に、子守が四、五人集まって、哀れな調子の唄《うた》を謳《うた》っているのを聞くと、自分が田舎で貧しく育った昔のことが想い出される。新吉はふと自分の影が寂しいように思って、「己の親戚《みうち》と言っちゃ、まアお作の家だけなんだから……。」と独り言を言っていた。
 汽車は間もなく出た。新吉は硬いクッションの上に縮かまって横になると、じきに目を瞑《つぶ》った。中野あたりまでとりとめもなくお作のことを考えていた。あまり可愛いと思ったこともないが、何だか深く胸に刻み込まれてしまったようにも思えた。そのうちに、ウトウトと眠ったかと思うと、東京へ入るに従って、客車が追い追い雑踏して来るのに気がついた。
 飯田町のステーションを出るころは、酔《え》いがもうすっかり醒《さ》めていた。新吉は何かに唆《そその》かされるような心持で、月の冴《さ》えた広い大道をフラフラと歩いて行った。
 店では二人の小僧が帳場で講釈本を読んでいた。黙って奥へ通ると、茶の室《ま》には湯の沸《たぎ》る音ばかりが耳に立って、その隅ッこの押入れの側で、蒲団を延べて、按摩《あんま》に腰を揉《も》ましながら、グッタリとお国が正体もなく眠っていた。後向きになった銀杏返《いちょうがえ》しの首が、ダラリと枕から落ちそうになって、体が斜めに俯伏《うつぶ》しになっていた。立ち働く時のキリリとしたお国とは思えぬくらいであった。貧相な男按摩は、薄気味の悪い白眼を剥《む》き出して、折々|灯《ひ》の方を瞶《みつ》めていた。
 坐って鉄瓶を下す時の新吉の顔色は変っていた。煙管《きせる》を二、三度、火鉢の縁に敲《たた》きつけると、疎《うと》ましそうに女の姿を見やって、スパスパと莨を喫《す》った。するうちお国は目を覚ました。
「お帰りなさい。」と舌のだらけたような調子で声かけた。「少し御免なさいよ。あまり肩が凝ったもんですから……あなたもお疲れでしょう。後で揉んでおもらいなすってはどうです。」
 新吉は何とも言わなかった。
 しばらくすると、お国は懈《だる》そうに、うつむいたまま顔を半分こっちへ向けた。
「どうでした、お作さんは……。」
「イヤ、別に変りはないようです。」新吉は空を向いていた。
 お国はまだ何やら、寝ぼけ声で話しかけたが、後は呻吟《うめ》くように細い声が聞えて、じきにウトウトと眠りに陥《お》ちてし
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