に托《あず》けて、和泉屋へ行くと言って宅《うち》を出た。
 お作は後でほっとしていた。優しい顔に似合わず、気象はなかなか烈《はげ》しいように思われた。無口なようで、何でも彼でもさらけ出すところが、男らしいようにも思われた。昨夜《ゆうべ》の羽織や袴を畳んで箪笥にしまい込もうとした時、「其奴《そいつ》は小野が、余所《よそ》から借りて来てくれたんだから……。」と低声《こごえ》に言って風呂敷を出して、自分で叮寧に包んだ、虚栄《みえ》も人前もない様子が、何となく頼もしいような気もした。初めての自分には、胸がドキリとするほど荒い言《ことば》をかけることもあるが、心持は空竹《からたけ》を割ったような男だとも思った。この店も二、三年の中には、グッと手広くするつもりだから……と、昨夜寝てから話したことなども憶《おも》い出された。自分の宅《うち》の一ツも建てたり、千や二千の金の出来るまでは、目を瞑《つぶ》って辛抱してくれろと言った言《ことば》を考え出すと、お作はただ思いがけないような切ないような気がした。この五、六日の不安と動揺とが、懈《だる》い体と一緒に熔《とろ》け合って、嬉しいような、はかないような思いが、胸一杯に漂うていた。
 お作は机に肱《ひじ》を突いて、うっとりと広い新開の町を眺《なが》めた。淡《うす》い冬の日は折々曇って、寂しい影が一体に行《ゆ》き遍《わた》っていた。凍《かじか》んだような人の姿が夢のように、往来《ゆきき》している。お作の目は潤《うる》んでいた。まだはっきりした印象もない新吉の顔が、何《なん》かしらぼんやりした輪のような物の中から見えるようであった。

     十

 幸福な月日は、滑るように過ぎ去った。新吉は結婚後一層家業に精が出た。その働きぶりには以前に比して、いくらか用意とか思慮とかいう余裕《ゆとり》が出来て来た。小僧を使うこと、仕入や得意を作ることも巧みになった。体を動かすことが、比較的少くなった代りに、多く頭脳《あたま》を使うような傾きもあった。
 けれど、お作は何の役にも立たなかった。気立てが優しいのと、起居《たちい》がしとやかなのと、物質上の欲望が少いのと、ただそれだけがこの女の長所《とりえ》だということが、いよいよ明らかになって来た。新吉が出てしまうと、お作は良人《おっと》にいいつかったことのほか、何の気働きも機転も利かすことが出来なかった
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