影《ひかげ》に背《そむ》いて、うつむいたままぽつねんと坐っていた。
「サアお作さん、あすこへ出てお酌しなけアいけない。」
お作は顔を赧《あか》らめ、締りのない口元に皺《しわ》を寄せて笑った。
八
小野が少し食べ酔って管を捲《ま》いたくらいで、九時過ぎに一同無事に引き揚げた。叔母と兄貴とは、紛擾《ごたごた》のなかで、長たらしく挨拶していたが、出る時兄貴の足はふらついていた。新吉側の友人は、ひとしきり飲み直してから暇《いとま》を告げた。
「アア、人の婚礼でああ騒ぐ奴《やつ》の気が知れねえ。」というように、新吉は酔《え》いの退《ひ》いた蒼い顔をしてグッタリと床に就いた。
明朝《あした》目を覚ますと、お作はもう起きていた。枕頭《まくらもと》には綺麗に火入れの灰を均《なら》した莨盆と、折り目の崩《くず》れぬ新聞が置いてあった。暁からやや雨が降ったと見えて、軽い雨滴《あまだれ》の音が、眠りを貪《むさぼ》った頭に心持よく聞えた。豆屋の鈴の音も湿り気を含んでいた。
何だか今朝から不時な荷物を背負わされたような心持もするが、店を持った時も同じ不安のあったことを思うと、ただ先が少し暗いばかりで、暗い中にも光明はあった。床を離れて茶の間へ出ようとすると、ひょっこりお作と出会った。お作は瓦斯糸織《ガスいとお》りの不断着に赤い襷《たすき》をかけて、顔は下手につけた白粉《おしろい》が斑《まだら》づくっていた。
「オヤ。」と言って赤い顔をうつむいてしまったが、新吉はにっこりともしないで、そのまま店へ出た。店には近所の貧乏町から女の子供が一人、赤子を負《おぶ》った四十ばかりの萎《しな》びた爺《おやじ》が一人、炭や味噌《みそ》を買いに来ていた。
新吉は小僧と一緒に、打って変った愛想のよい顔をして元気よく商《あきな》いをした。
朝飯の時、初めてお作の顔を熟視することが出来た。狭い食卓に、昨夜《ゆうべ》の残りの御馳走などをならべて、差し向いで箸《はし》を取ったが、お作は折々目をあげて新吉の顔を見た。新吉も飯を盛る横顔をじっと瞶《みつ》めた。寸法の詰った丸味のある、鼻の小さい顔で額も迫っていた。指節《ゆびふし》の短い手に何やら石入りの指環《ゆびわ》を嵌《は》めていた。飯が済むと、新吉は急に気忙しそうな様子で、二、三服莨を吸っていたが、やがて台所口で飯を食っている傭い婆さんに大声で
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