ように、それでも万一の場合を慮《おもんぱ》かって廃業とまでは行かず、一時休業届を出して一軒もつことになった。均平も重荷は背負《しょ》いたくはなかったが、彼女を失いたくもなかった。
「それはね、私もああいう世界に知った人もあって、少しは事情も解《わか》っているが、よしんば踏台にされないまでも、金が続かなくなると女も考え出すし、こっちは今まで入れ揚げた金に未練も出て来て、なかなか面倒なもので、大抵の人が手を焼くんですよ。」
 均平が懇意なダンス友達の医者に、それとなく意見をきいた時、友達は言っていた。均平も自信はなく、先が案じられたが、今更逃げを張る気にもなれず、銀子の一本気な性格にも信頼していた。
 家は松の家と裏の路次づたいに往来のできる、今まで置き家であった小体《こてい》な二階屋であった。初め均平は出入りに近所の目が恥ずかしく、方々縁台など持ち出している、宵《よい》のうちはことにも肩身が狭く、できるだけ二階にじっとしていることにした。そのころになると、主人が生前|見栄《みえ》を張っていた松の家も、貸金があると思っていた方に逆に借金のあることが解ったり、電話も担保に入っていたりして、皆で勧めた入院の手おくれた謎《なぞ》も釈《と》けて来た。

      四

 均平は場所もあろうのに、こんな不潔な絃歌《げんか》の巷《ちまた》で、女に家をもたせたりして納まっている自分を擽《くすぐ》ったく思い、ひそかに反省することもあり、そんな時に限って、気紛《きまぐ》れ半分宗教書を繙《ひもと》いたり、少年時代に感奮させられた聖賢の書を引っ張り出したりするのだったが、本来|稟質《ひんしつ》が薄く、深く沈潜することができないせいもあって、それらの書物も言葉や文章は面白いが、それを飯の種子《たね》として取り扱うのならとにかく、宇宙観や人生観を導き出すにはあまりに非科学的で、身につきそうはなかった。中学時代に読んだダアウィンやヘッケルのような古い科学書の方がまだしも身についている感じだった。
「君だって何かなくては困るよ。いつも若ければいいが、年を取れば取るほど生活の伴侶《はんりょ》は必要だよ。」
 これも中年で妻を失った均平の友人の言葉で、均平は近頃この友人の刊行物を、少し手伝っていた。
 例のお医者も、この辺を往診のついでに、時々様子を見に来たりして、「あの人は金取りではないね」と、銀子を気に入っていた。
 均平は邸宅を取られてから、子供と一緒に小さい借家にいたので、自然双方を往来することになり、銀子の癖で何となし気分が険悪になったり、均平自身も理由もなしに神経が苛立《いらだ》たしくなったりすると、いきなりステッキを手にして、ふらりと子供の方へ帰って行くのだったが、それも二人の生活の前途に不安の影が差していたからであった。
 銀子は退屈しのぎというだけでなく、まさかの時にはいつ何時|撥《ばち》をもつことにならないとも限らないので、もとから清元が地だったので、六十に近い女の師匠に出稽古《でげいこ》をしてもらい、土橋を稽古していた。師匠は日の少しかげった時分に浴衣《ゆかた》がけで現われ、たっぷりした声で、江戸ものらしい調子で謳《うた》っていたが、銀子の謡《うた》いぶりはいつも素朴《そぼく》で、甘味たっぷりの豊かな声ながら、気取りや巧者なところはなかった。それがすむと小唄《こうた》を四ツ五ツつけてもらうことにしていた。均平もそれらの稽古本を開いて見ることもあり、古い江戸の匂いをかぐような気がして、民衆の間から産まれた芸術だというのと、声調が長唄ほどうわずった騒々しさがないのとで、時には聴《き》く気にもなるのであった。
「少し勉強して名取になったら、どうなのか。」
 均平が言っても、銀子にはそれほどの熱意もなく、商売道具だから仕方なしやっているものの、名取になれば附き合いが張り、金がかかるばかりだと言うのであった。
 前には大黒屋という大きな芸者屋があり、主人は砲兵|工廠《こうしょう》の職工あがりだったが、芸者に出してあった娘に好い運がおとずれ、親たちもこの商売に取りつき、好況時代にめきめき羽を伸ばしたのだったが、ある大衆ものの大作家が、方々荒らしまわった揚句、一時ここで豪遊をきわめたのも、売れっ子のその娘が目に留まったからであった。
 裏には狭い庭と路次を隔てて、活動館の弁士の家庭が見透かされ、弁士の妹夫婦もそこに同棲《どうせい》していた。そのころは弁士もまだ場末の小屋には、ちらほら残炎を保っていて、彼はこの附近の二つの館を掛持ちし、無声映画のちゃんばらものなどに出演していた。妹は芸者では芽が吹かず、カフエ全盛の時代だったので、廃業して女給に転身し、そこで医専出の若い男と出来あい、二階で同棲生活を始めたところであった。
「あれみんな権太さんの兄弟よ。あの
前へ 次へ
全77ページ中20ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング