座敷の戦法であり、映画で見たり物の本で読んだりしたことが、種になっているものらしかった。
 ある時、それはちょうどお盆少し前のことで、置き家では出先へのお配り物などで、忙しい最中に銀子の主人は扁桃腺《へんとうせん》で倒れ、二階に寝ていたが、かつては十四五人の抱えをおき、全盛をきわめていた松の家というその家も、今度銀子が看板借りで来た時分には、あまり売れのよくない妓《こ》が二人いるきりで、銀子の月々入れる少しばかりの看板料すら当てにするようになっていた。しかし主人は人使いが巧いようにやり繰りも上手で、銀子や家人の前には少しも襤褸《ぼろ》を出さず、看板を落とすようなことはなかった。
「扁桃腺でそんなに酷《ひど》くなるなんて可笑しいね。腎臓《じんぞう》じゃないのか。」
 均平は銀子の松次から、その容体をきいた時、そんな直感が動いた。その主人は五十七で、今の女房が銀子より五つ六つ年若の二十四だということも思い合わされた。
「少し手おくれなの。お医者のいうには、松島さんどうも膿《うみ》を呑《の》んだらしいというの。もう顔に水腫《むくみ》が来てるようだわ。」
 そしてその次ぎに逢《あ》った時には、もう葬式のすんだ後であり、銀子も二度も使われた主人であるだけに、何か侘《わび》しげにしていた。
「あれからすぐ病院へ担《かつ》ぎこんだのよ。けどその時はもう駄目だったのね。お小水が詰まって、三日目にお陀仏《だぶつ》になってしまったの。入院する時私も送って行ったけれど、姐さんのことを、あれも年がいかないし、商売のことはわからないから、留守を何分頼むと言っていましたっけが、三人も子供があるし、お祖母《ばあ》さんもあるし、後がどうなりますか。でも姐さん年が若いし、泣いてもいなかったわ。」
「父さん父さんて、君の口癖にいうその親爺さんどんな人なんだい。」
「何でもお父さんが佐倉の御典医だったというから、家柄はいいらしいんだけれど、あの父さんは確かに才子ではあるけれど、ひどい放蕩者《ほうとうもの》らしいのよ。」

      三

 この松島の死んだ時、銀子は家にいなかった。
「父さん悪いのに、私出ていていいのかしら。」
 彼女は松島の姑《しゅうとめ》に当たるお婆《ばあ》さんにきいてみた。
 松島も父が佐倉藩の御典医であり、彼自身も抱えたちの前では帝大の医科の学生崩れのように言っていたので、銀子たちもそのつもりでいたが、ずっと後に彼の前身は洋服屋だということを言って聞かせるものもあった。しかし家柄はれっきとしたもので、この老母も桑名あたりの藩士の家に産まれただけに、手蹟《しゅせき》は見事で気性もしっかりしていた。
「松次さんには働いてもらわなくちゃ。病院の方はみんながついているから。」
 銀子はそのつもりで、自動車のブロカアの連中と、暑さしのぎに銀座会館の裏から築地河岸《つきじがし》へと舟遊びに出ており、帰りの土産《みやげ》に大黒屋で佃煮《つくだに》を買い、路傍の花売娘から、パラピンにつつんだ花を三束買って、客と別れて帰って来た。そして大通りのガレイジの処《ところ》で、車をおりて仲通りへ入って来ると、以前の朋輩《ほうばい》であり、今は松の家の分け看板として、めきめき売り出して来た松栄とひょっこり出喰《でく》わし、松島の死を知った。
「あら。」
「今病院からお棺で帰って来るところよ。貴女《あなた》を方々捜したんだけど、どこへ行ったんだか、お出先でも知らないというんでしょう。」
「あら、私金扇(鳥料理)からお客と涼みに行ってたのよ。」
 そのころ日比谷や池ノ畔《はた》、隅田川《すみだがわ》にも納涼大会があり、映画や演芸の屋台などで人を集め、大川の舟遊びも盛っていた。松次は看板借りであり、鳥屋で昼間からの玉数《ぎょくかず》も記入された伝票をもらうと、舟遊びはサアビスに附き合ったのだったが、さっそく分《わけ》松の家で衣裳《いしょう》を着かえ、松の家の前にならんで棺の来るのを待っていたのだった。すべての情景があまりにもあわただしく彼女もぼんやりしてしまった。
「この土地では、お弔いは千円とか千五百円とか、お金があって、少し派手好きだと、もっと盛大にやるけど、一切見番|委《まか》せで、役員たちで世話をやくんですのに、お父さんのはそんな表立ったこともしず、集まったのは懇意な人だけで、あの虚栄《みえ》っ張りに似合わない質素なものよ。」
 銀子は言っていたが、死後彼女も松島の懇意筋から、後に残った若い姐《ねえ》さんと年寄を助けて、この家《うち》でもう少し働くようにとも言われ、ちょっと立場に困っていたが、近所に別居している松島の第一夫人や、中野に邸宅を構えて裕福に暮らしている故人の異腹の妹などの集まった席上で、松次の身の振り方について評議が行なわれ、とにかく三村にも安心させる
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