銀子のことを考えたりして、玄関口へ出た。
八
均平はしばらく玄関前で、加世子たちの出て来るのを待ってから、やがて製材所の傍《そば》を通って街道《かいどう》へ登った。この道を奥の方へと荷馬車の通うのにも出逢《であ》ったが、人里がありそうにも思えない荒寥《こうりょう》たる感じで、陰鬱《いんうつ》な樹木の姿も粗野であった。
途中に、それでも少し小高い処《ところ》に、ペンキ塗りの新築のかなり大きな別荘があり、レコオドの音が朗らかに聞こえ、製氷会社と土地会社を兼ねた事務所があったりした。
「お兄さま感謝していましたわ。」
加世子は父と並んで歩き出した時言った。
「感謝!」
「それからお兄さまこのごろになって、お父さまの心持がやっと解《わか》るような気がすると言っていましたけれど。」
「可哀《かわい》そうに病気して気が弱くなったんだろう。」
「それもあるでしょうけれど、あれで随分しっかりしたところもあるわ。」
「何しろあの時分は、お母さんが少し子供に甘くしすぎたんだよ。己《おれ》は子供の時から貧乏に育って、少しいじけていたもんだから、お母さんのやることが気に入らなかった。学生のくせに毛糸のジャケツを買ったり、ゴムの雨靴を買ったりさ。己は下駄箱《げたばこ》のなかで、それを見つけてかっとなって引き裂いてしまったものだよ。あの時分は己も頭脳《あたま》が古かったし、今から思うと頑固《がんこ》すぎたと思うよ。明治時代に書生生活をしたものには、どうかするとそういうところがあったよ。そのころから均一はコオヒーを飲んだり、音楽を聞いたり、映画や歌劇を見たりしたものだ。もっとも己も最近では若いものに感染《かぶ》れて、だんだんそういうものの方が好きになった。」
「そうね。映画御覧になります?」
「時々見る。退屈|凌《しの》ぎにね。しかしこのごろはいい画《え》がちっとも来ないじゃないか。」
「え、御時勢が御時勢だから。でもたまには……。」
「ひところは均一も、音楽家にでもなりそうで、どうかと思っていたが、そうでもなかった。己も明治時代の実利主義派で、飯にならんものはやっても困ると思っていたものだ。近代的な教養というものに、まるで理解がなかった。」
「けれど今はまたそういう時代じゃないんでしょうか。」
「そうも言えるが、それとはまた違うようだ。もっとも世の中にはそういう階層もないとはいえん。しかしみな頭脳《あたま》がよくなって、単に古いものを古いなりに扱っているのではなく、時代の視角で新しい解釈を下そうとしているようだ。己は一切傍観者で、勉強もしないから何も解《わか》りはしないけれど。」
「そういえばお兄さまも少し変わって来たわ。」
「どういうふうに。」
「どうといって説明はできないけれど、何しろ一年の余も大陸の風に吹かれていましたから。」
ぼつぼつ話しながら、二人は青嵐荘近くまで来ていた。かれこれ十時半であった。
部屋は一晩寝ただけに、昨日着いた時よりも親しみが出来、均平はここで一ト月も暮らし、自分をよく考えてみるのもよいかも知れぬと思ったが、そういう機会はこれまでにもなかったわけではなく、本当に考える気なら、それが絃歌《げんか》の巷《ちまた》でも少しも差《さ》し閊《つか》えないはずだと思われた。
しばらくお茶を呑《の》んで休んでから、加世子が頼んだタキシイが来たところで、三人はまた打ち揃《そろ》って山荘を出た。
上諏訪でおりたのは、十二時過ぎであった。
「どうしましょう、私お腹《なか》がすいたんですの。フジ屋へでもお入りになりません?」
「食事ならホテルでしよう。買物はその後になさい。」
ホテルまではちょっと間があった。銀子に加世子を紹介したところで、こだわりのない銀子のことだから加世子に悪い感じを与えるはずもなく、反対に銀子にもいやな印象を与えるわけもなく、これを機会にたまには逢っても悪くはないし、夙《はや》く母に別れて愛に渇《かつ》えている加世子にとって、時にとっての話相手になるのではないかと、均平は自分勝手にそんなことを考えていた。
九
銀子はちょうどつまらなそうに独りでサロンにいて、グラフを読んでいたが、サアビス掛りのボオイが取り次ぎ、均平が入って行った。
「退屈したろう。」
均平が帽子を取ると、
「そんなでもない。」
と素気《そっけ》なく言ってすぐ入口にまごついている加世子に目を見張った。この眼も若い時は深く澄んで張りのある方だったが、今は目蓋《まぶた》にも少し緩《たる》みができていた。
「お嬢さんでしょう。」
「そうだよ。上諏訪へ遊びに行くというから、連れて来たんだ。あすこは病院だけは素敵だが、何しろ荒い山で全くの未懇地だ。」
そう言って均平が、振り返ってにやり笑うので、加世子も口元ににっこ
前へ
次へ
全77ページ中14ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング