ず、辣腕《らつわん》を揮《ふる》いつくした果てに、負債で首がまわらず、夜逃げ同様に土地を売ることになった彼女の生涯もひどく数寄なものだと思われるのだった。
 民子は浦和の小地主の娘として生まれ、少女時代を東京で堅い屋敷奉公に過ごし、その屋敷が時代の英傑後藤新平の家であり、目端《めはし》の利くところから、主人に可愛《かわい》がられ、十八までそこの奥向きの小間使として働き、やがて馬喰町《ばくろちょう》のある仕舞《しも》うた家に片着いたのだった。馬喰町といっても彼女の片着いたのは士《さむらい》階級で、土地や家作で裕福に暮らしており、民子の良人《おっと》も学校出であったところから予備少尉として軍籍にあった。そこでは本妻に子がなく、その時分にはまだそんな習慣もあって、彼は子種を取るためのお腹様の腹から産まれたのであり、本妻の子として育てられたものだったが、結婚生活の二年目に日露の戦争が起こり、彼も出征して戦死してしまった。その時民子は妊娠九カ月であり、戦死と聞くと瞬間激しい衝動にうたれてにわかに逆上し、心神を喪失して脳病院に担《かつ》ぎこまれ、そこで流産したきり、三年たらずもの歳月を送り、やっと正常に還《かえ》った時には、内輪であった彼女の性格も一変していた。
 彼女の矜《ほこ》りは後藤の屋敷に愛せられていたことであり、抱えたちにもよく主人の日常を語って聞かせるのだったが、無軌道な彼女の虚栄《みえ》の種子を植えつけたのもおそらく数年間の奉公に染《し》みこんだその家庭の雰囲気《ふんいき》であり、それが良人の戦歿後《せんぼつご》、しばらく中断状態にあった心神の恢復《かいふく》とともに芽出しはじめ、凄《すご》い相手をでも見つけるつもりで、彼女は新橋から芸者としての第一歩を踏み出したものであった。
 政治によらず実業によらず、明治時代のいわゆる成功には新柳二橋の花柳界が必ず付き纏《まと》っており、政党花やかなりし過去はもちろん、今この時代になっても、上層の社交に欠くべからざるものは花柳界であり、新柳二橋の大宴会は絶えない現状であるが、下層階級の娘たちの虚栄《みえ》も、大抵あの辺を根拠として発展したものらしかった。上層階級の空気を吸って来た民子が、良人に死に訣《わか》れ、胎児をも流した果てに、死から蘇《よみがえ》って新橋へ身を投じたのも、あながち訳のわからぬ筋道でもないのであった。
 しかし新橋や柳橋に左褄《ひだりづま》を取るものが、皆が皆まで玉の輿《こし》に乗るものとは限らず、今は世のなかの秩序も調《ととの》って来たので、二号として顕要の人に囲われるか、料亭《りょうてい》や待合の、主婦として、悪くすると逆様《さかさま》に金権者流から高利を搾《しぼ》られるくらいが落ちで、ずっと下積みになると、行き詰まれば借金の多いところから、保護法のない海外へ出るよりほかなく、肉を刻まれ骨を舐《しゃ》ぶられても訴えるところがなく、生きて還《かえ》るのは珍らしい方とされた。
 今この民子も玉の輿に乗り損《そこ》ねた一人で、彼女の放浪生活もそれから始まったわけだった。

      二

 彼女は華車《きゃしゃ》づくりで上背《うわぜい》もあり、後ろ姿のすっきりした女だったが、目が細く鼻も小さい割に口の大きい、あまり均齊《きんせい》の取れない長面《ながおもて》で、感じの好い方ではなく、芸もいくらか下地はあったが、もちろん俄仕込《にわかじこ》みで、粒揃《つぶぞろ》いの新橋では座敷の栄《は》えるはずもなく、借金が殖《ふ》える一方なので、河岸《かし》をかえて北海道へと飛び、函館《はこだて》から小樽《おたる》、室蘭《むろらん》とせいぜい一年か二年かで御輿《みこし》をあげ、そちこち転々した果てに樺太《からふと》まで乗《の》し、大泊《おおどまり》から汽車で一二時間の豊原で、有名な花屋に落ち着いたのだったが、東京へ舞い戻って芳町へ現われた時分は、もう三十の大年増《おおどしま》であり、そこで稼いでいるうちに、米屋町《こめやまち》で少しは名前の通った花村という年輩の男を物にし、花村がちょうど妻と死に訣《わか》れて、孤独の寂しさを身にしみて感じていた折なので、家へ入れる約束で、金を引き出し、とにかく自前となって一軒もつことになったのだった。
 I―町へ銀子を見に来た時、一緒に来たのは、彼女が自前の披露目《ひろめ》の前後に抱えた分けの芸者の春次で、春次の来たてには、やっと七輪とお鉢《はち》が台所にあるくらいの創始期であったが、三四年するうちに金主も花村の上手を越した、同じ米屋町の大物がつき、これは色気ぬきの高い利子で資本《もと》を卸し、抱えも殖《ふ》えれば、世帯《しょたい》道具も揃《そろ》い、屋台は小さくても、派手ッ気な彼女の外の受けは悪くなく、世界戦後の好況の潮に乗って、めきめき売り出し
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