ある晩わざと家をぬけ出して、ふらふらと栗栖の家の前まで来た。
九
栗栖は隅《すみ》に椅子《いす》卓子《テイブル》などを置いてある八畳の日本|室《ま》で、ドイツ語の医学書を読んでいたが、銀子の牡丹がふらふらと入って来るのを見ると、見られては悪いものか何ぞのように、ぴたりと閉じた。銀子は咽喉《のど》に湿布をして、右の顎骨《あごぼね》あたりの肉が、まだいくらか腫《は》れているように見えたが、目にも潤《うる》みをもっていた。そして「今晩は」ともいわず、ぐったり壁際《かべぎわ》の長椅子にかけた。
「どうしたんだい、今ごろ。」
「夜風に当たっちゃいけないんだよ。」
銀子は頷《うなず》いていたが、栗栖は診《み》てやろうと言って、反射鏡などかけ、銀子を椅子にかけさせて咽喉を覗《のぞ》いたりしたが、ルゴールも塗った。銀子は、親爺が栗栖を忌避して、別の医者にかかっていた。
「含嗽《うがい》してるの。」
「してるわ。」
「今夜は何かあったのかい。変じゃないか。」
栗栖はテイブルの前の回転椅子をこっちへまわし、煙草《たばこ》にマッチを摺《す》った。
「ううん。」
婆《ばあ》やは蜜柑《みかん》と紅茶をもって来て、喫茶台のうえに置いて行ったが、
「蜜柑はよくないが、少しぐらいいいだろう。」
「そうお。」
銀子も栗栖も紅茶を掻《か》き廻していたが、彼は銀子の顔を見ながら、
「君も十七になったわけだね。」
「十七だか十八だか、私月足らずの十一月生まれだから。」
「ふむ、そうなのか。それにしてはいい体してるじゃないか。僕も一度君を描《か》いてみたいと思っているんだが、典型的なモデルだね。」
「そうかしら。」
「それに芸者らしいところ少しもないね。」
「芸者|嫌《きら》いよ。」
「嫌いなのどうしてなったんだ。親のためか。大抵そう言うけれど、君は娼婦型《しょうふがた》でないから、それはそうだろう。」
栗栖は間をおいて、
「いつか聞こうと思ってたんだけれど、一体前借はいくらくらいあるの。」
栗栖は言いにくそうに、初めて当たってみるのだったが、銀子はマダムの初七日も済んだか済まぬに、ちょっとその相談を受け、渾身《みうち》の熱くなるのを覚えた。栗栖が少し酒気を帯びていたので、銀子も揶揄《からか》われているような気がしながら、ただ「いいわ」と言ったのであった。そしてそれから一層親爺に反抗的な態度を取るようになった。
ある晩なぞ枕頭《まくらもと》においた栗栖の写真を見て、彼はいきなりずたずたに引き裂き、銀子の島田を※[#「※」は「てへん+劣」、第3水準1−84−77、383−下8]《むし》ったりした。
マダムは死際《しにぎわ》に、浜龍にはどうせ好い相手があって、家を出るだろうから、銀子は年も行かないから無理かも知らないけど、気心がよく解《わか》っているから、マダムの後釜《あとがま》になって、商売を受け継ぐようにと、そんな意味のことも洩《も》らしていた。その時になると、マダムは死後のことが気にかかり、栗栖のことは口へ出しもしないのだった。この社会に有りがちのことでもあり、親や妹たちもいるので、銀子もよほど目を瞑《つぶ》ろうと思うこともあったが、脂肪質の顔を見るのも※[#「※」は「さんずい+垂」、383−下17]液《むしず》が走るようで、やはり素直にはなれないのだった。出たてのころ目につくのは、大抵若いのっぺりした男なのだが、鳥居の数が重なるにつれ、若造では喰《く》い足りなくなり、莫迦々々《ばかばか》しい感じのするのが、彼女たちの早熟の悲哀であった。しかし銀子はまだぴちぴちしていた。
「失敬なことを訊《き》いてすまないけれど、やはり現実の問題となるとね。」
銀子は黙っているので栗栖は追加した。
「いくらでもないわ。」
「…………。」
「千円が少し切れるぐらいだと思うわ。それに違約の期限が過ぎているから、親元身受けだったら、落籍《ひき》祝いなんかしなくたっていいのよ。」
「じゃ、それだけ払ったら、君僕んとこへ来るね。よし安心したまえ。」
銀子は事もなげに領いたが、何か大きな矛盾がにわかに胸に乗しかかって来て、瞬間弱い頭がぐらぐらするのだった。今夜もまた自暴酒《やけざけ》を呷《あお》っているであろう、獣のような親爺《おやじ》の顔も目に浮かんで来た。
急患があり、病院から小使が呼びに来たので栗栖は玄関へ出て行ったが、部屋へ帰ってみると、銀子が薬棚《くすりだな》の前に立って、うろうろ中を覗《のぞ》いていた。
十
「おい、そんな処《ところ》に立って、何を覗いていたんだい。その中には劇薬もあるんだぞ。」
栗栖は仄《ほの》かな六感が働き、まさかとは思ったが、いわば小娘の銀子なので、その心理状態は測りかね、窘《たしな》めるように言った。
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