踊りや三味線《しゃみせん》を仕込まれ、それが彼女の生涯の運命を決定してしまった。
 彼女の本所の家の隣に、あの辺の工場で事務を扱い、小楽に暮らしている小父《おじ》さんがおったが、不断|可愛《かわい》がられていたので、暇乞《いとまご》いに行くと、何がしかの餞別《せんべつ》を紙にひねってくれ、お披露目《ひろめ》をしたら行ってやるから、葉書でもよこすようにとのことだったので、その通りすると、約束を反故《ほご》にせず観音|詣《まい》りかたがたやって来て、また何某《なにがし》かの小遣《こづかい》をくれて行った。彼女は東京でいっぱしの芸者になってからも、それを忘れることはなかった。
 銀子は深川で世帯《しょたい》をもった時分、裁縫の稽古《けいこ》に通っている家《うち》で、一度この小父さんに逢《あ》い、銀子が同じ土地に棲《す》んでいたというので、小菊のことをきかれた。しかし銀子がこの土地の、しかも同じ家へ来た時分には、小菊の亡くなった直後であった。
 那古は那古観音で名が高く、霊岸島から船で来る東京人も多かった。洋画家や文学青年も入り込んだ。芸者は大抵東京の海沿いから渡ったもので、下町らしい気分があり、波の音かと思われる鼓や太鼓が浜風に伝わった。小菊はそこに七年もいたが、次第に土地の狭苦しさに堪えられなくなり、客に智慧《ちえ》をかわれたりして、東京への憧《あこが》れと伸びあがりたい気持に駆られた。彼女は赤坂へと住みかえた。
 松島を知ったのは、ちょうどそのころであった。
 松島は儲《もう》けの荒いところから、とかく道楽ものの多いといわれる洋服屋で、本郷通りに店をもっていた。年上の女房に下職、小僧もいて、大学なぞへも出入りしていた。この店を出すについての資金も、女房の方から出ていた。松島はそうした世渡りに特別の才能をもっており、女の信用を得るのに生まれながら器用さもあった。
 一夜遊び仲間と赤坂で、松島は三十人ばかり芸者をかけてみた。若い美妓《びぎ》もあり、座持ちのうまい年増《としま》もあった。その中に小菊もいて、初め座敷へ現われたところでは、ちょいとぱっとしないようで、大して美形というほどでもなく、芸も一流とは言いがたく、これといって目立つ特色はなかったが、附き合っているうちに、人柄のよさが出て来、素直な顔に細かい陰影があり、小作りの姿にも意気人柄なところがあった。
 彼は何かぴ
前へ 次へ
全154ページ中44ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング