れたが、銀子を春よしへ届けてから、いずれどこかで重立ったものだけの二次会を開くつもりだったので、店員の計らいでここは早く切り揚げ、省線で帰ることにした。
銀子は半ば知覚を失い、寝ている顔のうえの窓から見える空や森の影も定かにはわからず、口を利くのも億劫《おっくう》で、夢現《ゆめうつつ》のうちに東京駅まで来て、そこから自動車で家まで運ばれた。
車から卸され、狭い路次を二人の肩にもたれ、二階へ上がろうとする途端に、玄関口に立っている、妹の痩《や》せ細った蒼《あお》い顔がちらと目につき、口を動かそうとしたが、声が出ず、そのまま段梯子《だんばしご》を上がって奥の三畳に寝かされた。
不断薄情に仕向けているだけに、容体ただならずと見てお神もあわて、さっそく電話で係りつけの医師を呼び、梅村医師が時を移さず駈《か》けつけて来たところで、診察の結果、それが急性の悪性肺炎とわかり、にわかに騒ぎ出した。
十二
食塩やカンフルの注射の反応が初めて現われ、銀子はようやく一週間の昏睡《こんすい》状態から醒《さ》めかけ、何かひそひそ私語《ささや》き合う人の声が耳に伝わり、仄《ほの》かな光の世界へ蘇《よみがえ》ったと思うと、そこに見知らぬ老翁の恐《こわ》い顔が見え、傍《そば》に白衣の看護婦や梅村医師、父やお神も顔を並べているのに気がつき、これが臨終なのかとも思われた。若林もお神の電話で駈けつけ、最後の彼女を見守っていた。
「お銀しっかりするんだぞ。」
父親が目を拭《ふ》きながら繰り返し呼んだが、頷《うなず》く力もなく、目蓋《まぶた》も重たげであった。
「晴子、お前何も心配することはないから安心しておいで。何か言いたいことがあったら、遠慮なし言ってごらん。」
若林も耳に口を寄せ、呟《つぶや》くのだったが、銀子は後のことを頼むつもりらしく、何か言いたげに唇《くちびる》をぴくつかせるだけであった。彼女は頭も毬栗《いがぐり》で、頬《ほお》はげっそり削《そ》げ鼻は尖《とが》り、手も蝋色《ろういろ》に痩《や》せ細っていたが、病気は急性の肺炎に、腹膜と腎臓《じんぞう》の併発症があり、梅村医師が懇意ずくで来診を求めた帝大のM―老博士も首を捻《ひね》ったくらいであったが、不断から銀子に好感をもっていた医師は容易に匙《さじ》を投げず、この一週間というもの、ほとんど徹宵《よっぴて》付ききりで
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