しだが、何か話があったろう。」
「何だかそんなこといっていたけれど、私《あたい》あんな男|大嫌《だいきら》いさ。」
「どうしてさ。ああいう大金持よりも、あんな人の方がよほどいいと思うがな。」
「お銀が嫌いなものを、お前《めえ》がいくら気に入ったって仕様があるもんか。」
父は煩《うる》さがり、言葉荒くやりこめた。
裏木戸
一
翌日の晩方、銀子は芳町《よしちょう》の春よしというその芸者屋へ行ってみた。
春よしは人形町通りを梅園《うめぞの》横丁へ入ったところで、ちょうど大門《おおもん》通りへぬける路地のなかにあった。幕府の末期までこの辺に伝馬町《てんまちょう》の大牢《おおろう》とともに芳原《よしわら》があったので、芳町といい大門通りというのも、それに因《ちな》んだものだと言われていたが、春芳は三百に近い土地の置家のなかでは微々たる存在であり、家も豚小屋のように手狭なものであった。下は大門通りに店をもっている母屋《おもや》の下駄屋《げたや》と共通の台所が、板壁一枚で仕切られ、四畳半の上がり口と台所の間にある廊下に狭い段梯子《だんばしご》がその四畳半のうしろで曲がっており、それを上がったところに、六畳と三畳があり、下は親子三人に小僧一人の下駄屋の住居《すまい》という、切り詰め方で、許可地以外に喰《は》み出ることを許されない盛り場としてはそこへ割り込むのも容易ではなかった。
春よしというこの小さい置家も、元は土地の顔役の経営に係るある大看板の分れで、最近まで分け看板の名で営業していたのだったが、方々|流浪《るろう》した果てに、やっとここに落ち着くことになったお神の芳村民子の山勘なやり口が、何か本家との間に事件を起こし、機嫌《きげん》を害《そこ》ねたところから、看板を取りあげられ、今の春よしを新規に名乗ることになったので、土地では新看板であり、お神専用の二階と下の廊下と別々に、二本の電話がひいてあり、家は小さくても、表を花やかに虚栄《みえ》を張っていた。
一軒の主《あるじ》となった今、銀子は時々このお神のことが想《おも》い出され、大阪へ落ちて行ったとばかりで、消息も知れない彼女のそのころの、放漫なやり口の機関《からくり》がやっと解《わか》るような気がするのだったが、分けや丸、半玉と十余人の抱えの稼《かせ》ぎからあがる一万もの月々の収入も身につか
前へ
次へ
全154ページ中122ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング