って、緊張した顔をしていたが、看《み》ると鞄が一つ床の間においてあった。縁側から畳のうえに薄い秋の西日が差し、裏町に飴屋《あめや》の太鼓の音がしていた。
「どうしたの、旅行?」
銀子がきくと、倉持はにっこりして、
「いや、そういうわけじゃないが、何だか家《うち》の形勢が変だから、僕の名義の株券を全部持ち出して来たんだ。」
「そう、どうして?」
「どうも母が感づいて、用心しだして来たらしいんだ。この間山を少しばかり売ろうと思ってちょっと分家に当たってみたところ、買わないというから、誰か買い手がないか聞いてみてくれないかと頼んでみたけれど、おいそれとすぐ買手がつくものでないから、止した方がいいだろうと言うんだ。分家の口吻《くちぶり》じゃ、渡の叔父《おじ》が先手をうって警戒網を張っているものらしいんだ。」
「それで株券を持ち出したというわけなのね。」
「叔父は肚《はら》が黒いから、おためごかしに母を手懐《てなず》けて、何をするか知れん。これを当分君に預けておくから、持って帰ってどこかへ仕舞っておいてくれ。」
「そんなもの置くとこないわ。第一家の人たちと叔父さんとなあなあかも知れないから、このごろ少し使いすぎるくらいのことを言っているかも知れないわ。」
「そんなはずはないと思うけどな。君んとこも半季々々に僕から取るものはちゃんと取っているからね。」
「何だか解《わか》んないけど、そんなもの持ち出しても仕様がないでしょう。」
十二
倉持が株券の詰まった鞄をひっさげて、そのまま帰ってから三四日も間をおいて、銀子はまた同じ家《うち》から早い口がかかり、行ってみると、女中が段梯子《だんばしご》の上がり口へ来て、そっと拇指《おやゆび》を出して見せ、倉持の母が逢《あ》って話をしてみたいと言って、待っていると言うのだった。倉持もせっかく株券を持ち出して来ても、それが売れない山と同じに先を越されて罐詰《かんづめ》になっており、下手をすれば親類合議で準禁治産という手もあり、妄動《もうどう》して叔父たちの係蹄《わな》にかからないとも限らないのであった。事情を知っている待合のお神にも、それとなく忠告され、彼もようやく考え直し、株券を元の金庫へ納めたのだったが、そのことがあってから、母もにわかにあわて出し、解決に乗り出したものだった。
ちょうどこの花柳界に、煙草屋《たばこや》
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