ま》の裾《すそ》にある料亭《りょうてい》で、四五町もある海沿いの道を車で通うのであった。そのころになると、この北の海にも春らしい紫色の濛靄《もや》が沖に立ちこめ、日和山の桜の梢《こずえ》にも蕾《つぼみ》らしいものが芽を吹き、頂上に登ると草餅《くさもち》を売る茶店もあって、銀子も朋輩《ほうばい》と連れ立ち残雪の下から草の萌《も》え出るその山へ登ることもあった。夜は沖に明滅する白魚舟の漁火《いさりび》も見えるのであった。
銀子が少しおくれて二階へ上がって行くと、女中がちょうど通し物と酒を運んで来たところで、どこかの部屋では箱も入っていた。いくらか日が永くなったらしく、海はまだ暮れきっていなかった。
倉持は何か緊張した表情をしていた。四五日前に来た時、彼は結婚の話を持ち出し、二晩も銀子と部屋に閉じ籠《こ》もっていたが、それは酒のうえのことであり、銀子もふわっと話に乗りながら、夢のような気持がしているのだったが、彼は今夜もその話を持ち出し、機会を作って一度母に逢わせるから、そのつもりでいてくれと言うので、昔亡父が母に贈ったというマリエージ・リングを袂《たもと》から出し、銀子の指にはめた。指環《ゆびわ》の台は純金であったが、環状《わなり》に並べた九つの小粒の真珠の真ん中に、一つの大きな真珠があり、倉持家の定紋に造られたもので、贈り主の父の母に対する愛情のいかに深かったかを示すものであり、それを偸《ぬす》み出して女に贈る坊っちゃんらしい彼の熱情に、銀子も少し驚きの目を見張っていた。
「そんなことしていいんですの。」
「僕は君を商売人だとは思っていないからそれを贈るんだ。受けてくれるだろう。」
「え、有難いと思うわ。」
七
桜の咲く五月ともなると、梅も桃も一時に咲き、嫩葉《わかば》の萌《も》え出る木々の梢《こずえ》や、草の蘇《よみが》える黒土から、咽《むせ》ぶような瘟気《いきれ》を発散し、寒さに怯《おび》えがちの銀子も、何となし脊丈《せたけ》が伸びるような歓《よろこ》びを感ずるのであった。暗澹《あんたん》たる水のうえを、幻のごとく飛んで行く鴎《かもめ》も寂しいものだったが、寝ざめに耳にする川蒸汽や汽車の汽笛の音も、旅の空では何となく物悲しく、倉持を駅まで送って行って、上りの汽車を見るのも好い気持ではなかった。東京育ちの、貧乏に痛めつけられて来たので、田舎《い
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