で行ってみると、磯貝がちゃんとそこに立っていた。
「また嗅《か》ぎつけられちゃった。」
銀子は思ったが、引き返すのもどうかと思案して、かまわず近よって行った。銀子は自分持ちの箱丁《はこや》に、時々金を握らせていたので、栗栖の座敷だとわかると、箱丁も気を利かして、裏の家へ直接かけに来ることにしていたが親爺《おやじ》は見番の役員なので、何時にどこへ入ったかということも、あけ透《す》けに判るのであった。しかしお座敷にいる以上、明くまでは出先の権利で、お客がどこの誰であろうと、どうもならないのであった。ある時も銀子が栗栖の座敷にいると、彼は気が揉《も》めてならず、別の座敷へ上がってよその芸者をかけ、わざと陽気に騒いだりして、苛々《いらいら》する気分を紛らせていた。栗栖もそれが磯貝とわかり、六感にぴんと来るものがあり、酔いもさめた形であった。栗栖の足はそれから少し遠退《とおの》き、しばらく顔を見せないのであった。彼は銀子との結婚について父の諒解《りょうかい》を得たいと思い、遊びすぎて金にも窮《つま》っていたので、手術料などで相当の収入《みいり》がありそうに見えても、いざ結婚となると少し纏《まと》まった金も必要なのだったが、父も最近めっきり白髪《しらが》が殖《ふ》え酒量も減って、自転車で遠方の病家まわりをしている姿が気の毒になり、何も言い出さずに帰って来たのだった。帰って来ると、いやな噂《うわさ》が耳に入り、気を悪くしていたので、医専が県立であるところから、県内の方々から依頼して来る手術も人に譲り怠りがちであった。彼は銀子を追究して真相をはっきりさせることも怖《こわ》く、それかと言って商売人の銀子の言葉を言葉通りに受け容《い》れることもできず、病院の仕事もろくろく手に着かないのだった。
「お前一体ここへ何しに来るんだ。」
親爺は栗栖の家の少し手前の処《ところ》で、銀子を遮《さえぎ》った。
「用があるのよ。」
「何の用だかそれを言いなさい。己《おれ》に言えない用があるわけはない。」
磯貝は悪く気を廻していたが、銀子も立ちながら諍《あらそ》ってもいられず、一緒に還《かえ》ることにした。
そのころになると父の店もやや調《ととの》い、棚の前通りにズックの学生靴や捲《まき》ゲートル、水筒にランドセルなど学生向きのものも並べてぼつぼつ商いもあり、滝に打たれたせいか父の頭も軽くなり、
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