「ううん。」
 銀子の牡丹は苦笑しながら、照れ隠しに部屋をあちこち動いていたが、風に吹かれる一茎の葦《あし》のように、繊弱《かよわ》い心は微《かす》かに戦《そよ》いでいた。
「どうも少し変だよ、君、何か心配事でもあるんじゃないの。商売上のこととか、親のこととか。」
 栗栖はワイシャツを着ながら尋ねた。
 銀子は何か頭脳《あたま》に物が一杯詰まっているような感じで、返辞もできずに、猫《ねこ》が飼主に粘《へば》りついているように、栗栖の周囲《まわり》を去らなかった。
「君何かあるんだろう。今夜僕に何か訴えに来たんじゃないのか。それだったら遠慮なく言う方がいいぜ。」
 銀子は目に涙をためていたが、栗栖もちょっとてこずるくらい童蒙《どうもう》な表情をしていた。彼女は何ということなし、ただ人気のない遠い処《ところ》へ行きたいような気が漠然《ばくぜん》としていた。蒼《あお》い無限の海原《うなばら》が自分を吸い込もうとして蜿蜒《うねり》をうっている、それがまず目に浮かぶのであった。彼女は稲毛《いなげ》の料亭《りょうてい》にある宴会に呼ばれ、夜がふけてから、朋輩《ほうばい》と車を連ねて、暗い野道を帰って来たこともあったが、波の音が夢心地《ゆめごこち》の耳に通ったりして、酒の酔いが少しずつ消えて行く頭脳に、言い知らぬ侘《わび》しさが襲いかかり、死の幻想に浸るのだったが、そうした寂しさはこのごろの彼女の心に時々|這《は》い寄って来るのだった。
「すぐ帰って来るけれど、君はどうする。よかったら待っていたまえ。」
 栗栖は仕度《したく》を調《ととの》え、部屋を出ようとして、優しく言った。
「私も帰るわ。」
 そう言って一緒に外へ出たが、銀子は一丁ばかり黙ってついて来て、寂しいところへ来た時別れてしまった。
 栗栖から離れると、銀子の心はにわかに崩折《くずお》れ、とぼとぼと元の道を歩いたのが、栗栖の門の前まで来ると、薄暗いところに茶の角袖《かくそで》の外套《がいとう》に、鳥打をかぶった親爺の磯貝《いそがい》が立っているのに出逢《であ》い、はっとしたが、彼はつかつかと寄って来て、いきなり腕の痺《しび》れるほどしっかり掴《つか》み、物もいわずにぐいぐい引っ張って行くので、銀子も力一杯に振り釈《ほど》き、すたすたと駈《か》け出して裏通りづたいに家《うち》へ帰って来た。
 銀子は少し我慢さえすれば
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