愛らしい指に、サハイヤやオパルの指環《ゆびわ》が、にわかに光り出し、錦紗《きんしゃ》の着物も幾枚か殖《ふ》えた。座敷がかかっても、気の向かない時は勝手に断わり、親爺に酌をさせられるのがいやさに、映画館でたっぷり時間を潰《つぶ》したりしたが、ある時は子供を折檻《せっかん》するように蒲団《ふとん》にくるくる捲《ま》かれて、酒を呑んでいる傍《そば》に転《ころ》がされたりした。
そのころになると、銀子と栗栖の距離も、だんだん近くなり、マダムを見舞った帰りなどに、一緒に映画を見に入ることもあり、お茶を呑むこともあった。映画は無声で、イタリイの伝記物などが多く、ドイツ物もあった。栗栖はドイツ物のタイトルを読むのが敏《はや》く、詳しい説明をして聞かせるのだったが、映画に限らず、この若いドクトルの知識と趣味は驚くほど広く、油絵も描けば小説も作るのであった。
病院でも文学青年が幾人かおり、寄ると触《さわ》ると外国の作品や現代日本の作家の批評をしたり、めいめい作品を持ち寄ったりもして、熱をあげていた。
「お銀ちゃん栗栖君を何と思ってるんだい。あれはなかなか偉いんだよ。小説を書かせたって、このごろの駈出《かけだ》しの作家|跣足《はだし》だぜ。」
同僚のあるものは蔭《かげ》で言っていたが、それも盲目の銀子に栗栖の価値を知らせるためだったが、銀子は一般の芸者並みに客として見る場合、男性はやはり一つの異性的存在で、細かい差別は分からなかったが、四街道《よつかいどう》、習志野《ならしの》、下志津《しもしづ》などから来る若い将校や、たまには商用で東京から来る商人、または官庁の役人などと違って、こうした科学者には、何か芸者に対する感じにも繊細なところがある代りに、気むずかしさもあるように思えた。それに栗栖の態度には、どうかすると銀子を教育するような心持があり、何だと思うこともあった。
暮はひどくあわただしかった。マダムが病院から死骸《なきがら》で帰り、葬式《とむらい》を出すのとほとんど同時に、前からそんな気配のあった浜龍が、ちょうど大森へ移転する芸者屋の看板を買って、披露目《ひろめ》をすることになり、家《うち》がげっそり寂しくなってしまった。
銀子も暮から春へかけて、感冒にかかり扁桃腺《へんとうせん》を脹《は》らして寝たり起きたりしていたが、親爺《おやじ》の親切な介抱にも彼女の憎悪は募り、
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