服従しなければいけない。すべてのものを擲《なげう》って、肉体と魂と一切のものを――生命までも捧《ささ》げるようでなかったら、とても僕の高い愛に値しないというような意味なのよ。結局それでお互いに手紙や荷物を送り返してお終《しま》いなの。――大体岩谷という男は、死んだ奥さんの美しい幻影で頭脳《あたま》が一杯だから、そこいらの有合せものでは満足できないのよ。何だかだととても註文《ちゅうもん》がむずかしくて、私もそれで厭気《いやき》も差したの。自殺したのも、内面にそういう悩みもあったんじゃないの。」
 均平も新聞でその顔を見た覚えはあるが、あの時代の政界を濁していた利権屋の悲劇の一つである。事件の経緯《いきさつ》は知らなかった。
「松の家の方は。」
「父さんも少し怖《こわ》くなって来たらしいの。そんなことをたびたびやられちゃ、使うのに骨が折れるから、何なら思うようにしてくれというの。結局松さんやお母さんが口を利いて、私も一生懸命働くということで納まったの。そのために借金が何でも六百円ばかり殖《ふ》えて、取れるなら岩谷から取れというんだけれど、出しもしないし言ってもやれないし、そのままになったけれど、とかくお終いは芸者が背負《しょ》いこみがちのものよ。私も借金のあるうちは手足を縛られているようで、とてもいやなものだから、少し馬力をかけて、二千円ばかりの前借を、二年で綺麗《きれい》に切ってしまったの。荷が重くなった途端に、反撥心《はんぱつしん》が出たというのかしら。」

      三

 銀子が若かったころの自分の姿を振り返り、その時々の環境やら出来事やらの連絡を辿《たど》り、過去がだんだんはっきりした形で見えるようになったのは、ついこのごろのことで、目にみえぬ年波が一年一年若さを奪って行くことにも気づくのであった。
「今のうちだよ。四十になると若い燕《つばめ》か何かでなくちゃ、相手は見つからんからね。」
 均平は銀子を憫《あわ》れみ、しばしば自分が独りになる時のことを考え、孤独に堪え得るかどうかを、自身に検討してみるのだったが、それは老年の僻《ひが》みに見えるだけで、彼女には新しい男性を考えることもすでに億劫《おっくう》になっていた。貞操を弄《もてあそ》ばれがちな、この社会の女に特有な男性への嫌悪《けんお》や反抗も彼女には強く、性格がしばしば男の子のように見えるのだった。

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