十一
その時代にもこんな古風な女もあった――。
小菊は九月の半ば過ぎに、松島から、もう引き揚げるのに足を出すといけないから、金を少し送れという電話がかかったので、三四日遊んで一緒に帰るつもりで、自分で持って行ったのだったが、どうしたのか午後に上野を立った彼女は、明くる日の昼ごろにもう帰って来ていた。
「どうしたのさ。一緒に帰ればいいのに。」
お婆さんが訊《き》くと、
「え、でもやっぱり家が心配で。」
彼女は曖昧《あいまい》な返事をしながら、何か落ち着かない素振りをしていた。
伊香保では客もめっきり減り、芒《すすき》の穂なども伸びて、朝夕は風の味もすでに秋の感触であったが、松島が品子と今一人、雑用に働いている遠縁の娘と三人づれで、土産《みやげ》をしこたま持って帰ってみると、小菊の姿は家に見えなかった。
「今日帰ることは知ってるはずだから、髪でも結いに行ったんだろう。」
松島は独りで思っていた。
「子供の時分にいた房州の海が見たくなったから、二三日行って来ると言って、昨夜《ゆうべ》霊岸島から船で行きましたよ。お父さんたちの帰る時分に、帰って来ますといってね。」
松島は怪訝《けげん》な顔をしたが、またあの石屋にでも誘い出されたのではないかと、しばらく忘れていた石屋のことを何となく思い出したりしていた。
しかしそれは当たらず、小菊は昔しの抱え主を訪ね、幼い時代の可憐《いとし》げな自分の姿を追憶し、しみじみ身の上話がしたかったのであった。やり場のない憂愁が胸一杯に塞《ふさ》がっていた。品子は妹といっても、腹違いであり、小菊はお篠にとって義理の娘であった。今までに互いに冷たい感じを抱《いだ》いたことは一度もなかった。
「それじゃ貴女《あなた》も別に一軒出して、新規に花々しく旗挙げしたらどうだえ。」
昔しの主人は言うのであったが、内輪に生まれついた小菊にそんな行動の取れるはずもなかった。
小菊は遅くまで一晩話し、懐かしい浪《なみ》の音を耳にしながら眠ったが、翌日は泳ぎ馴《な》れた海を見に行き、馴染《なじみ》のふかい町の裏通りなど二人で見て歩き、山の観音へもお詣《まい》りして、山手の田圃《たんぼ》なかの料理屋で、二人で銚子《ちょうし》を取り食事をした。
小菊の帰ったのは翌日の朝であった。
「何だってまた己《おれ》の帰るのを見かけて、房州なんか行
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