」
「七十|幾歳《いくつ》ですって?」
「七十三になりますがね。もう耳が駄目でさ。亜鉛《とたん》屋根にパラパラと来る雨の音が聞えなくなりましたからね、随分不断に使った躯ですよ。若い時分にゃ宇都宮まで俥ひいて、日帰りでしたからね。あアお午後《ひるから》ぶらぶらと向を出て八時なら八時に数寄屋橋まで著《つ》けろと云や、丁《ちゃん》と其時間に入《へえ》ったんでさ。……ああ、面白えこともあった。苦しいこともあった。十一の年に実のお袋の仕向が些と腑におちねえことがあって、可愛がってくれた里親の家から、江戸へ逃げて来てから、色々なことをやりましたが、火事にも逢《あ》や、女房にも死別れた。忘れもしねえ、暑い土用の最中《さなか》に、餒《ひも》じい腹かかえて、神田から鉄砲洲まで急ぎの客人を載せって、やれやれと思って棍棒を卸すてえとぐらぐらと目が眩《まわ》って其処へ打倒《ぶったお》れた。帰りはまた聿駄天《いだてん》[#ママ]走りだ。自分の辛《つら》いよりか、朝から三時過ぎまでお粥も啜《すす》らずに待っている嬶《かかあ》や子供が案じられてなんねえ。」
「兵隊にいっていた息子さんは、幾歳《いくつ》で亡くしました
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