。いくら泳ぎが巧くたって大の男に死物狂いで掴まられた日にゃ往生だからね。尤も水のなかの仕事だから、能くは解らねえ。よくは解らねえが、まあそうだろうと云う皆さんの鑑定だ。 
 忰の体は、その時錨にかかって挙ったにゃ揚ったが、もう駄目だった。秋山さんの方は、それから大分日数がかかった。これは相も悉皆《すっかり》崩れていたという話でね。」
 爺さんはそこまで話して来ると、目を屡瞬《しばたた》いて、泣|面《づら》をかきそうな顔を、じっと押|堪《こら》えているらしく、皺の多い筋肉が、微かに動いていた。煙管を持つ手や、立てている膝頭のわなわな戦《わなな》いているのも、向合っている主の目によく見えた。
「忘れもしねえ、それが丁度九月の九日だ。私はその時、仕事から帰って、湯に行ったり何かしてね、娘どもを相手に飯をすまして、凉んでるてえと、××から忰の死んだ報知《しらせ》が来たというんだ。私アその頃籍が元町の兄貴の内にあったもんだから、そこから然う言って電報が此処へ届く。どうも様子が能く解らねえ。けど、その晩はもう遅くもあるし、さアと云って出かけることもならねえもんだから、明朝《あした》仕事を休んで一番で立って行った。
 それア鄭重なもんですぜ。私ア恁《こ》う恁うしたもので、これこれで出向いて来ましたって云うことを話すと、直に夫々掛りの人に通じて、忰の死骸の据ってるところへ案内される。死骸はもう棺のなかへ収まって、花も備えてあれば、盛物もしてある。ちゃんと番人までつけて、線香を絶やさないようにしてある。
 そこで上官の方にもお目にかかって、忰の死んだ始末も会得の行くように詳しくお話し下すったんですよ。その時お目にかかって、弔みを云って下さったのが、先ず連隊長、大隊長、中隊長、小隊長と、こう皆さんが夫々叮嚀な御挨拶をなすって下さる。それで×××の△△連隊から河までが十八町、そこから河向一里のあいだのお見送りが、隊の規則になっておるんでござえんして、士官さんが十八人おつき下さる。これが本葬で、香奠は孰《どっち》にしても公に下るのが十五円と、恁《こう》云う規則なんでござえんして……
 それで、『大瀬、お前は晴二郎の死骸を、此まま引取って行くか、それとも此方で本葬をして骨にして持って行くか、孰《いずれ》でも其方の都合にするが可い』と、まあ恁う仰って下さるんで……。そこで私は、この晴二郎には、左《と》に右《かく》兄弟も親類もあることでござえますから、死骸を引取らして頂いて、一ト晩だけは通夜をしてやりとうごぜえんすと、恁う申しあげましたんです。
 それでまア、本郷の山本まで引取るなら、旗が五本に人足が十三人……山本と申すのは、晴二郎の姉の縁先きなんでして、その時の棺側が、礼帽の上等兵が四人、士官が中尉がお一人に少尉がお一人……尤も連隊から一里のあいだは、その外に旗が三本、蓮花が三本、これは其処まで落すことになっているんで……。
 その日は、それで一里のあいだ皆さんに送って頂いて、後は車に積んで元町まで持込んで来ました。
 その翌日が愈々此処で葬礼と云うことなんで、その時隊の方から見送って下さったのが三本筋に二本筋、少尉が二タ方に下副官がお一方……この下副官の方は初瀬源太郎と仰也って、晴二郎を河から引揚げて下すった方なんでござえして、何かの因縁だろうから、殊に終まで面倒を見てやれと云う連隊長からのお言葉だったもんですから、まア色々とお世話をして下すったんですよ。
 その日の骨あげには、兵士一小隊見送りに来る筈でござえしたが、これが丁度九月の二十一日で、二十五日には×××の連隊もいよいよ戦地へ出発しなくちゃならねえんで兵士を繰出している訳にいかねえで、それだけお廃《や》めになりましたがね、それでも四十人だけ手のすいてる方が、寺まで来て下すったと云う話でござえしたよ。それから此方じゃ、区長、兵事掛。兵事義会の重立ち、何でも礼服を着た方が三|方《かた》か四|方《かた》送って下すった。
 職業は瓦屋でござえんすけれど、暫らくでもお上の役を勤めていたばかりで、大層お手厚い葬礼でね。此方とらの餓鬼が、屋根から落ちて死んだって、誰方か何といって下さるものけえ。
 その日、初頼という方が、持って来た下すった香奠が、将校方から十五円、兵士一同から二十円……これは皆さんが各々の気心で下すったもので、兵士方は上官から御内意があって、一人につき二銭から三銭のがなれど、人数にすれば二十と云う金高になるといった訳で。他に兵事義会から十円……それから大将の屋敷から十円、秋山大尉の親御から五円……何でも一切で百円はござんしたろう。
 それから、確か二十三日の日でござえんしたろう、×××大将の若旦那、これはその時分の三本筋でしてね、つまり綾子さんの弟御に当るお方でさ。その方と秋山さんの親御が
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