の、海軍大佐のところへ、金を無心に行くらしいんです。その支度や旅費や何かでね。どうも方々|簗《やな》をかけておくですからな。大佐も毎月養育料を取られてゐるうへに、時々大きく持込まれるらしいんで、他所事《よそごと》ながら、お察ししますよ。」吾妻はさう言つて笑つた。
「だが、そんなに質《たち》のわるい女でもありませんね。家内が色々に言つて聞かしたら、すつかり其の気になつたらしいんです。子供も手放すらしいです。」
「子供を実際もつてゐるんですか。」磯村はきいた。
「もつてゐますとも。連れて来たのがさうですもの。」吾妻は答へた。
 磯村の妻は「さうでしたか。」と言つて※[#「りっしんべん+兄」、第3水準1−84−45]《とぼ》けてゐたが、実を告げなかつた彼女の気持は磯村にはわかつてゐた。
「それも奥さんの気持が素直だからですよ。あの女をそこまで宥《なだ》めていくのは、大抵ぢやありませんね。」磯村はさう言つて夫人に感謝した。
「全くですわ。どうせ貴女《あなた》にしれたからは、私も公然《おほびら》に子供をつれて、是からちよく/\伺ひますなんて、私も腹が立ちました。」
「えゝさうですわ。自分の子供を、お宅の坊ちやんや何かと同じやうにね。」夫人も言つた。
「解らないんですよ。格別悪いと云ふ女ぢやないんだ。それだけ始末がわるい。」磯村も批判者の地位に立てたことを、愉快に感じた。
「お蔭で私も安心しましたわ。」
 やがて四人は、卓《テーブル》の側へ集つて紅茶など飲んだ。そこに先刻《さつき》の電報が、吾妻の目にもついた。長閑《のどか》な天気であつた。
「坊ちやん好かつたんですか。」
「え、お蔭さまで。」
「桜が咲きますな。一つお花見にでも出かけようぢやありませんか。」吾妻が出しぬけに言つた。
「え、好いですね。」磯村の妻も早速賛成した。
 けれどまだ何処かに安心し切れない何かが、彼女に残つてゐた。磯村にはそれが何であるかがよく解つてゐた。それを彼女の利己心だとばかりも思へなかつた。彼はこの出来事を、思ひのほか重大視してゐる彼女の心を、今までにも屡《しば/\》経験する機会をもつてゐた。それは寧《むし》ろ曾《かつ》て見たこともなかつたやうな、彼女の可憐《いぢら》しさだとしか思へなかつた。
[#地から1字上げ](大正十三年四月)



底本:「現代文学大系 11 徳田秋聲集」筑摩書房
   1965(昭和40)年5月10日発行
初出:「改造」
   1924(大正13)年4月
入力:高柳典子
校正:土屋隆
2007年4月24日作成
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