がどきりとなつた。
 勿論その女のことは人に頼んで間《なか》へ入つてもらつて、去年の冬とにかく一段落ついた形になつてゐたが、しかし相手が執念《しつこ》く出れば、彼はいつまでたつても安心する訳には行かないのであつた。
「また来たつて。」磯村は軽く問ひ返した。彼女の神経が尖《とが》つてゐるやうに思へて、それに触るのが辛《つら》かつた。
 今となつては、それは単に彼一人の苦労ではないことは判つてゐた。寧《むし》ろ彼女の方が、余計気にしてゐるくらゐであつた。磯村に取つては、思ひがけない災難のやうなものであつた。十年ぶりで、その女から手紙を受取つたとき、彼はそれ以来その女が何うして暮してゐたかを知りたいだけの興味で、多分いく分か生活が明るみへ出てゐるだらうと想像したところから、どこかでちよつと飯でも一緒に食べて話を聞かうと思つたに過ぎなかつたが、それが不運な彼のために用意された陥穽《かんせい》であつた。彼女を一目見たときから、彼はまざ/\幻滅を感じた。嫌悪《けんお》の情がむら/\起つたが、彼女の話はやつぱり聞きたかつた。そして彼は三度まで彼女を訪問した。彼女の話すところでは、最近まで或る工場持の保護を受けてゐたけれど、財界の恐慌でその関係は絶たなければならなかつた。で、すつかり行詰つてゐたところで、磯村に呼出しをかけることを思ひついた。
「ちよつと貴方《あなた》のお名前を見たものですから、一度お目にかゝりたいと思つて、手紙を差上げましたの。でも、多分来ては下さるまいと思つてゐましたのに。」彼女は若い時分とはまるで違つた、べちやつくやうな調子で言ふのであつた。
 飲食事《のみくひごと》をしながら、磯村は出来るだけ、彼女から話を引出さうと焦慮《あせ》つた結果、少しづつ小出しにそれを引出させることはできたけれど、それは真《ほん》の現在の身のうへくらゐのことであつた。
「私はどうしてかう亭主運が悪いんでせう。この子の父親とも暫く一緒に暮したんですけれど……今|憶《おも》ふと、それが私の一番幸福な時でした。」
 彼女はその男の写真なぞ出して見せた。それは大礼服を着飾つた軍人であつた。そしてその子供だと云ふ、五つになる愛らしい子が、餉台《ちやぶだい》の傍にすわつて鰻《うなぎ》を突ついてゐた。
 強《あなが》ち彼女も不真面目ではなささうに見えた。ビールに酔つてくると、彼女の生活から来た習慣
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