や石置場のようなものが雨に煙って、右手に見える無気味な大きな橋の袂《たもと》に、幾棟《いくむね》かの灰色の建築の一つから、灰色の煙が憂鬱《ゆううつ》に這《は》い靡《なび》いていた。
「ひどい雨ですことね。」
渋皮のむけた二十二三の女中が、半分繰り出されてあった板戸を開けて、肱掛窓《ひじかけまど》の手摺《てすり》や何かを拭いていた。水のうえには舟の往来もあって、庸三は来てよかったと思った。
女中は煙草盆《たばこぼん》や、お茶を運んでから、電話をかけていたが、商売屋なので、上がった以上、そうやってもいられなかった。
「お神さんじき帰りますわ。」
女中が言いに来た。
「誰か話の面白い年増《としま》はいない。」
「いますわ。一人呼びましょうか。」
やがて四十を少し出たくらいの、のっぽうの女が現われた。芸者という感じもしないのだったが、打ってつけだった。話も面白かった。お母さんの病気だと言って、旦那《だんな》を瞞《だま》して取った金で、京都で新派の俳優と遊んでいるところを、四条の橋で店の番頭に見つかって、旦那をしくじった若い芸者の話、公園の旧俳優と浮気して、根からぞっくり髪を切られた女の噂《うわさ》――花柳情痴の新聞種は尽きなかった。
そこへお神が入って来た。お神というよりかマダムといいたい……。春見た時はどこからしゃめん臭いところがあったが、今見ると縞《しま》お召の単衣《ひとえ》を着て、髪もインテリ婦人のように後ろで束《つか》ねて、ずっと綺麗《きれい》であった。
八
お神の小夜子《さよこ》は、媚《なま》めかしげにちろちろ動く美しい目をしていて、それだけでもその辺にざらに転《ころ》がっている女と、ちょっと異った印象を与えるのであったが、彼女は一本のお銚子《ちょうし》に盃洗《はいせん》、通しものなぞの載っている食卓の隅《すみ》っこへ遠のいて、台拭巾《だいぶきん》でそこらを拭きながら、
「大変ですね、先生も葉子さんの問題で……。」
庸三は二三杯|呑《の》んだ酒がもう顔へ出ていたが、
「僕も経験のないことで、君に少し聞いてもらいたいと思っているんだけれど。」
「賑《にぎ》やかでいいじゃありませんか。」彼女はじろりと庸三を見て、
「まあ一年は続きますね。」
小夜子は見通しをつけるのであった。
「今お宅にいらっしゃいますの。」
「ちょっと田舎へ行っているんだがね。僕も実はどうしようかと思っている。」
「田舎へ何しにいらしたんですの。」
「子供を継母の手から取り戻すためらしいんだ。」
そして庸三はこの事件のデテールズについて、何かと話したあとで、
「貴女《あなた》はどうしてこんな商売を始めたんです。」
「私もいろいろ考えたんですの。クルベーさんも、もう少し辛抱してくれれば、もっとどうにかすると言ってくれるんですけれど、あの人も大きな山がはずれて、ちょっといけなくなったもんですから。」
クルベーという独逸《ドイツ》の貴族は、新しい軍器などを取扱って盛大にやっていたものらしいが、支那の当路へ軍器を売り込もうとして、財産のほとんど全部を品物の購入や運動費に投じて、すっかりお膳立《ぜんだ》てが出来たところで、政府筋と支那との直接契約が成立してしまった。そこまで運ぶのに全力を尽した彼の計画が一時に水の泡《あわ》となってしまった。その電報を受け取った時、彼はフジヤ・ホテルで卒倒してしまった。
しかし小夜子は今そんなことを初対面の彼に、打ち明けるほど不用意ではなかった。クルベーとの七年間の花々しい同棲《どうせい》生活については、彼女はその後折にふれて口の端《は》へ出すこともあったし、一番彼女を愛しもし、甘やかしもしてくれたのは何といってもその独逸の貴族だったことも、時々|憶《おも》い出すものらしかったが、今は彼女もその愛の囚《とりこ》に似た生活から脱《のが》れ出た悦《よろこ》びで一杯であった。
「貴女の過去には随分いろいろのことがあったらしいね。」
「私?」
「新橋にいたことはないんか。」
「いました。あの時分文芸|倶楽部《クラブ》に花柳界の人の写真がよく出たでしょう。私のも大きく出ましたわ。――けどどうしてです。」
「何だか見たような気がするんだ。いつか新橋から汽車に乗った時ね、クションに坐りこんで、しきりに刺繍《ししゅう》をやっている芸者が三人いたことがあるんだ。その一人に君が似ているんだ。まだ若い時分……。」
「刺繍もやったことはありますけれど……。何せ、私のいた家《うち》の姐《ねえ》さんという人が、大変な人で、外国人の遺産が手に入って、すっかり財産家になってしまったんです。お正月のお座敷へ行くのに、正物《ほんもの》の小判や一朱金二朱金の裾模様《すそもよう》を着たというんでしたわ。それでお座敷から帰ると、夏なんか大した
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