の屋敷を出て、最近芝に世帯《しょたい》をもって何を初めようかと思案していた。
庸三は毛のもじゃもじゃした細い腕、指に光っている素晴らしいダイヤ、大きな珊瑚《さんご》、真珠など、こてこて箝《は》めた指環、だらしなく締めた派手な帯揚げの中から覗《のぞ》いている、長い火箸《ひばし》のような金庫の二本の鍵《かぎ》、男持の大振りな蟇口《がまぐち》――しかし飯を食べながら話していると、次第に昔、左褄《ひだりづま》を取っていたらしい面影も浮かんで来て、何とも不思議な存在であることに気がついたのであった。彼女は庸三の年齢や家庭の事情などを訊《き》いたが、自身では「そうですね、いろんなこともありましたけれど、とにかくライオンが初めて出来た時、募集に応じて女給になったのが振出しですね」と目を天井へやったきり、何も話さなかった。
田舎《いなか》ものの庸三はいつかそこで、人を新橋駅に見送った帰りに、妻や子供や親類の暁星《ぎょうせい》の先生などと一緒に、白と桃色のシャベットを食べて、何円か取られて驚いた覚えのある初期のライオンを思い出した。
「あれ三十五くらいでしょう。今五百円のペトロンがつきかけてるそうですが、多分|蹴《け》るでしょう。」
帰る途中弁護士は話していた。
庸三はあッとなったものだが、材料払底の折だったので、健康がやや恢復《かいふく》したところで、もう一度同行するように弁護士に当たってみた。しかし何か金銭問題の引っかかりでもあるらしく、「先生一人の方がええですよ」と、彼は辞した。――それきりになっていた。
一日おいて葉子が書斎に現われた。彼女は不意に母に死なれて、手を延ばしてくれさえすれば誰にでも寄りついて行く、やっと九つになったばかりの、庸三の末の娘の咲子《さきこ》を膝《ひざ》にしていた。咲子はいつとなし手触りの好い葉子に懐《なつ》いていた。葉子はぽたぽた涙を落としながら、自分に誠意があってのことだと訴え、一色から報告された庸三の非難の言葉に怨《うら》みを述べ立てた。泣き落しという手のあることも知らないわけではなかったけれど、やっと二十六やそこいらの、お嬢さん育ちの女をそういうふうに見ることも、彼の趣味ではなかった。醜い涙顔に冷やかな目を背向《そむ》けるとは反対に、彼は瞬間葉子を見直した。彼女は一色に小ッぴどくやっつけられて、出直して来たものらしかったが、何か擽《くすぐ》ったいようなその言葉も、大して彼の耳には立たなかった。
「時々来て家を見てくれるくらいは結構です。それ以外のことはいずれゆっくり考えましょう。」
茶の間で子供たちとしばらく遊んでから、葉子は帰って行った。
三
郊外のホテルのある一夜――その物狂わしい場面を思い出す前に、庸三はある日映画好きの彼女に誘われて、ちょうどその日は雨あがりだったので、高下駄《たかげた》を穿《は》いて浅草へ行く時、電車通りまでの間を、背の高い彼女と並んで歩くのも気がひけて「僕は自動車には乗りませんから」と断わって電車に乗ってからも、葉子が釣革《つりかわ》に垂れ下がりながら先生々々と口癖のように言って何かと話しかけるのに辟易《へきえき》したことだの、映画を見ているあいだ、そっと外套《がいとう》の袖《そで》の下をくぐって来る彼女の手に触れたときの狼狽《ろうばい》だの、ある日ふらりと彼女の部屋を訪ねると、真中に延びた寝床のなかに、熱っぽい顔をした彼女がいて、少し離れて坐った庸三が、今にも起き出すかと待っていると、彼女は赤い毛の肌着だけで、起きるにも起きられないことがやっと解《わか》って照れているうちに、畳のうえに延べられた手に顔をもって行くと、彼女は微声《こごえ》で耳元に「行くところまで……」とか何とか言ったのであったが、彼はそういうふうにして悪戯《いたずら》半分に彼女に触れたくはなかったこと、一夜彼女が自分が果して世間でいうような悪い女かどうかの判断を求めるために、初めから不幸であった結婚生活の破滅に陥った事情や、実家からさえも見放されるようになった経緯《いきさつ》、それに最近の草葉との結婚の失敗などについて、哀訴的に話しながら、止め度もなく嗚咽《すすりな》いた後で、英国のある老政治家と少女との恋のロオマンスについて彼女特得の薔薇色《ばらいろ》の感傷と熱情とで、あたかもぽっと出の田舎ものの老爺に、若い娘がレヴュウをでも案内するようなあんばいで、長々と説明して聴《き》かしたことなどが思い合わされるのであったが、ある日の午後彼はふと原稿紙やペンやインキを折鞄《おりかばん》につめて、差し当たっての仕事を片着けるために、郊外のそのホテルへ出ようとして、ちょうど遊びに来ていた葉子を誘ってしまったのであった。
「ほんと? いいんですの?」葉子は念を押した。
そしてそうなると、彼は引
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