いけないからって……一色さんいい人ですね。」
 庸三は妻の死んだ時、金を持って来てくれたり、寂しい子供たちの気分を紛らせるために、ラジオを装置してくれたりした、一色の好意も思わないわけではなかったが、何か自我的な追求心も働いていた。撞着《どうちゃく》が撞着のようにも考えられなかった。葉子への優先権というようなものをも、曖昧《あいまい》な計算のなかへそれとなく入れてもいたのであった。
 一色はタキシイを飛ばして来た。
「葉子さんいないんですてね。」
 庸三はわざと一色が知らないようなふうにして、葉子の出て行った前後の話をした。――郵便の消印のことも。
「それですと、替り目の活動館を捜すのが一番早いんだ。替わるのは木曜ですからね。あの人の行きつけは南明座ですよ。」
「南明座かしら。」
 庸三は幾度も同伴したシネマ・パレスを覗《のぞ》いてみようかと一度は思ったこともあったが、当てなしの捜索は徒《いたず》らに後の気持を寂しくするにすぎないのに気づいていた。もしかしたら誰か若い人とアベックだかも知れないという畏《おそ》れもあった。
「もしそれでも知れなかったら、私、神田の警察に懇意な男がいますから、調べてもらえばきっと知れますがね。」
「いや、そんなにしなくたって……。」
「いずれそのうち現われるでしょうけれど。」
 そう言って、一色はしばらく話しこんでから、警察の人への紹介を名刺に書いたりして、帰って行った。

 翌日の午後、庸三は神田の方へ出向いて行った。何ということなし子供も一緒だった。そして猿楽町辺をぶらぶら歩きながら、二三軒の旅館を訪ねてみたが、子供に興味のあるはずもないので、古本屋をそっちこっち覗《のぞ》いてから、神保町《じんぼうちょう》の盛り場へ出てお茶を呑《の》んで帰って来た。まだそのころは映画も思わせぶりたっぷりな弁士の説明づきで、スクリンに動く人間に声のないのも、ひどく表情を不自然なものにしていたので、庸三はわざわざ活動館へ入りたいとは思わなかったし、喫茶店にも興味がなかったが、子供とではたまにそういう処《ところ》へも足を容《い》れるのであった。

 翌朝庸三は持越しの衝動的な気持で、駿河台《するがだい》の旅館街を彷徨《ほうこう》していた。
 ずっと以前に、別れてしまった妻を追跡して、日光辺の旅館を虱潰《しらみつぶ》しに尋ねて、血眼で宿帳を調べてあるき、到
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