の方昨日ちょっと見えましたよ、いつもの処《ところ》へ仕立物を取りにおいでになって……。」
「どこにいるでしょう。」
「さあ、それは知りませんですよ。」
いつもの仕立屋さんというのは、妻が長年仕立物を頼んでいた、近所の頭《かしら》のお神さんのことで、庸三も疳性《かんしょう》のそのお神さんの手に縫ったものを着つけると、誰の縫ったものでも、ぴたり気持に来ないのであった。葉子も二三枚そこで仕立てて腕のいいことを知っていた。
その話をきいているうちに、庸三はにわかに弱い心臓が止まるような感じだった。
「つい家《うち》の側まで来ていて……。」
それが一時に彼を絶望に突きやった。そしてふらふらとそこを出て来ると四辺《あたり》が急に暗くなって、子供の手にも支えきれず、酒屋の露地の石畳のところにぐんなり仆《たお》れてしまったのだった。脳貧血の発作は彼の少年期にもあったが年取ってからも歯の療治とか執筆に苦しむ時などに、起こりがちであった。病院の廊下で仆れたり巷《ちまた》の雑踏を耳にしながら、ややしばし路傍に横たわっていたりしたこともあった。しかし今彼はそう長くは仆れてもいなかった。夏の宵《よい》の街《まち》でのことで、誰か通りすがりの人の声が耳元でしたかと思うと、たちまち蘇《よみがえ》って歩き出した。
大分たってからある日葉子の手紙が届いた。咲子|宛《あて》のもので、彼女の名も居所も書いてなかった。何か厚ぼったいその封書を手にした瞬間、彼はちょっと暗い気持になったが、とにかく開けて見た。
咲子はちょうど三四日病気していた。時々発作的に来る病気で、何か先天的な心臓の弁膜か何かの故障らしく胸部に痛みを感ずるものらしかった。長いあいだ子供の病気や死には馴《な》れている庸三だったが、夙《はや》く母に訣《わか》れた咲子の病気となると、一倍心が痛んだ。
「大きくなれば癒《なお》りますが、今のところちょっと……。」
医師は言うのであった。
「おばちゃん! おばちゃん。」
そう言って泣く咲子の声が耳に滲《し》みとおると、庸三の魂はひりひり疼《うず》いた。彼女は一度言い聞かされると、その瞬間から慈母のことは一切口にしなくなったが、それだけに、葉子の愛情は一層必要となった。童謡や童話で、胸をさすられたり、出ればきっとチョコレイトか何かを買ってくれて、散歩にもつれて行けば、頸《くび》を剃《そ
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