もは》ゆそうに、そっと寄って唇《くち》づけをすると、ぱっと離れた。足音が段梯子《だんばしご》にした。
「母はちっとも可笑《おか》しくないと言ってますのよ。」
 高い窓をあけて、碧《あお》い海を見たりしてから下へおりた。葉子の着替えも入っている彼のスウトケイスが、井戸や風呂《ふろ》の傍《そば》を通って、土間から渡って行く奥の離れの次ぎの間にすでに持ち込まれてあった。
 葉子はそこへ庸三を案内した。
「本当にお粗末な部屋ですけれど、父がいつけたところですの。父は誰をも近づけませんでしたの。ここで本ばかり読んでいましたの。冬の夜なんか咳入《せきい》る声が私たちの方へも聞こえて、本当に可哀相《かわいそう》でしたわ。」
 棚《たな》に翻訳小説や詩集のようなものが詰まっていた。細々《こまこま》した骨董品《こっとうひん》も並べてあった。庸三は花園をひかえた六畳の縁先きへ出て、額なんか見ていた。
「裏へ行ってみましょう。」
 誘われるままに、庭下駄《にわげた》を突っかけて、裏へ出てみた。そこには果樹や野菜畑、花畑があった。ちょっとした木にも花にも、葉子は美しい懐かしさを感ずるらしく、梅の古木や柘榴《ざくろ》の幹の側に立って、幼い時の思い出を語るのであった。幾つもの段々をおりると、そこに草の生《お》い茂った堤らしいものがあって、かなりな幅の川浪《かわなみ》が漫々と湛《たた》えていた。その果てに夕陽に照り映える日本海が蒼々《あおあお》と拡《ひろ》がっていた。啼《な》き声を立てて、無数の海猫《うみねこ》が浪のうえに凝《かた》まっていた。
 その晩、庸三が風呂へ入って、食事をすましたところへ、もう二人の記者がやって来た。仕方なし通すことにした。
「福島の方から、ちょっとそんな通信が入ったものですから。」
 文学的な情熱に燃えているような一人は、そう言って寛《くつろ》いだ。そして葉子を顧みて、
「ここにこんな風流な部屋があるんですか。」
 そして葉子がビイルを注《つ》いだりしているうちに、だんだん気分が釈《ほぐ》れて、社会面記者らしい気分のないことも頷《うなず》けて来た。
「先生の今度お出《い》でになったのは、結婚式をお挙げになるためだという噂《うわさ》ですが、そうですか。」
 庸三は狼狽《ろうばい》した。もっとも庸三にもしその意志があるなら横山の叔父《おじ》が話しに来るはずだと、葉子は言う
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