た彼には、ぴんと来るような若い時代らしい感覚も閃《ひら》めいていた。
「御免なさいね、奥さんのこと批判したりなんかして。でも、御近所で奥さん評判いいのよ。美容院のマダム讃《ほ》めていたわ。」
庸三は狐《きつね》に摘《つま》まれているような感じだったが、ちょうどそのころ、庸三は目に異状が現われて来て、道が凸凹《でこぼこ》してみえたり、光のなかにもやもやした波紋が浮いたりした。彼は年齢と肉体の隔りの多いこの恋愛に、初めから悲痛な恐怖を感じていたのだったが、ずっとうっちゃっておいた持病の糖尿病が今にわかに気にかかり出した。
「目が変だ。」
彼は昨日東京駅へ行く時、ふとそれを感じたのだった。
「じゃすぐ診《み》てもらわなきゃ。これから帰りに行きましょう。」
しかし馴《な》れて来ると、それはそう大して不自由を感ずるほどでもなかったが、今ふと池の畔を歩いていると、それがちょうどO――眼科医院の裏手になっているのに気がついた。診察時は過ぎようとしていたが、院長が気安く診てくれた。そして暗室へ入ったり、血液の試験をしたり、結核の有無を調べたりして、一時間以上もかかって厳密な試験をした結果、やはりそれが糖尿病に原因していることが明らかになった。
「当分つづけてカルシウムの注射をやってごらんなさい。」
院長は言うのだった。
庸三は帰りにニイランデル氏液を買って来て、埃《ほこり》だらけになっているアルコオル・ラムプと試験管とを取り出して、縁先きで検尿をやってみた。彼は病気発見当時、毎日病院へ通うと同時に、食料を一々|秤《はかり》にかけていたものだが、その当時は日に幾度となく自身で検尿もやった。それがずっと打ち絶えていたのであったが、今|蒼《あお》い炎の熱に沸騰した試験管の液体が、みるみる茶褐色《ちゃかっしょく》に変わり、煤《すす》のように真黒になって行くのを見ると、ちょっと気落ちがした。
「ほらほら真黒だ。」
彼は笑った。
「その皮肉そうな目。」
葉子も笑っていた。
庸三が葉子の勧めで、北の海岸にある彼女の故郷の家を見舞ったころには、沿道の遠近《おちこち》に桐の花が匂っていた。葉子はハンドバックに日傘《ひがさ》という気軽さで、淡い褐色がかった飛絣《とびがすり》のお召を着ていたが、それがこのごろ小肥《こぶと》りのして来た肉体を一層|豊艶《ほうえん》に見せていた。葉子はその
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