かっ詰まったお鈴という女中だけであった。後に女中の手が殖《ふ》えて来たけれど、お鈴は加世子の生きている時からの仕来《しきた》りを、曲りなりにも心得ていて、どこに何が仕舞ってあるのかもよく知っていた。しかし加世子も気づいていた持前の偸《ぬす》み癖がだんだん無遠慮になって来たところで、それもいつか遠ざけてしまった。
 ある小雨《こさめ》のふる日、葉子は顔を作って、地紋の黒い錦紗《きんしゃ》の紋附などを着て珍らしく一人で外出した。
「私写真|撮《と》りに行ってもいい?」
 彼女は庸三の机の側へ来て言った。
「いいとも。どこで……。」
「銀座の曽根《そね》といって、素晴らしい芸術的な写真撮るところよ。すぐ帰って来るわ。先生|家《うち》にじっとしていなきゃいや。きっとよ。じゃあ、げんまん!」
 そういう場合、大抵|接吻《せっぷん》と指切りを抵《かた》において行くのが、思いやりのある彼女の手であった。庸三は昔、下宿時代に遊びに行って、女が他の部屋へまわる時、縞《しま》お召の羽織をそこへ置いて行かれると、それが何かの気安めになったことを思い出したが、しかしその時は、どうかすると胡散《うさん》くさい彼女が離れて行きそうな仄《ほの》かな不安を感じながらも、言われるままにじっと待っているのだった。後になって考えると、間もなく気取ったポオズの写真が届いたところを見ると、それが全部|嘘《うそ》でないにしても、真実ではなかった。多分一色を訪ねたか、秋本がその時まだ東京にいたものとすると、彼の旅宿へ立ち寄ったものだと思われた。庸三がしとしと雨の降り募って来たアスファルトの上を、彼女が軽い塗下駄の足を運んでいる銀座の街《まち》を目に浮かべている間に、彼女の※[#「※」は「にんべん+就」、第3水準1−14−40、158−下−20]《やと》ったタキシイがどこをどう辷《すべ》っていたかも知れないのであった。女と逢《あ》っているよりも、女を待っている時の方が、ずっと幸福なものだということは、もとより知る由もなかった。庸三は銀座の到《いた》る処《ところ》に和髪とも洋髪ともつかない葉子独特の髪で、紺の雨傘《あまがさ》をさして、春雨のなかを歩いている彼女の幻を追っていた。が、するうち胸が圧《お》されるようになって来た。庸三はしかしそう長く悩んでいなかった。やがて帰って来た葉子は彼の膝《ひざ》へ来て甘えた。

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