《ご》になって彼はそれが惜しくなった。預り証もちょうど紙入れのなかにあった。敷金は二カ月分残っていた。
藤子は軽い雨のなかを、黒蛇《くろじゃ》の目をさして、四角《よつかど》に待っていた。彼女は久しく庸三のところへ出入りしている美貌《びぼう》の未亡人で、いつも葉子に関する庸三の話のよき聴《き》き手の一人であった。
やがて二人で小夜子の家《うち》で晩飯を食べるつもりで、自動車を一台呼びとめた。
結局は清川との恋愛によって、彼の幻想も微塵《みじん》に砕かれたと言ってよかった。
大分たってから、渋谷に書店を開き、その奥を若い人たちのサロンにして、どうにか生活の道に取りついた時、葉子もそれを庸三に見てもらいたく、北山をわざわざ使いに立てて会見を求めて来た。
その時庸三は待ち合わせていた葉子につれられて、その店を見に行ったが、二三度訪ねるうちに、ちょうど店番や書籍の配達などに働いていた青年は、三丁目のおでんやの文学青年で、その男の口から、葉子の近頃の消息も時々庸三の耳に伝わり、彼女の憧憬《しょうけい》の的となっていたコレット女史を逆で行ったような巷《ちまた》の生活が発展しそうに見えた。
そのころ庸三はふとした機会から、踊り場へ足踏みすることになり、そこで何かこだわりの多い羽織|袴《はかま》の気取りもかなぐり棄《す》てて、自由な背広姿になり、恋愛の疲れを癒《いや》すこともできた。そしてその時分から埃塗《ほこりまぶ》れの彼女の幻影も次第に薄れてしまった。
底本:「現代日本文学館8 徳田秋声」文藝春秋
1969(昭和44)年7月1日第1刷
入力:久保あきら
校正:湯地光弘
2001年5月17日公開
2003年6月22日修正
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