聞きたいと思っていたところなので、彼はステッキに半身を支えてしばらく耳を傾けながら、葉子の姿がもしも見えはしないかと、下宿の方に目を配っていた。先きの目当てのつかない彼女の下宿生活が、彼からの少しばかりの補助でいつまで持ちつづけられるはずのものでもなかったし、ジャアナリストに見放された葉子の立場を持ち直すこれという方法もなかったので、打開の道を講ずるために、何らか行動を執っているであろうことも考えられないことではなかった。それはそうなるべきだと思いながら、庸三の心には今なお割り切れないものがあった。しかしまた、なまじいに正体を突き止めたり何かするよりかも、今度はぼやかしておいた方がいいとも思って、なるだけ足を運ばないようにして来たのだったが、来てみるとやはり気になるのであった。と言っても彼も妄動《もうどう》のいけないことに、だんだん気がついていた。一度心が揺れはじめると、容易には揺れ止《や》まないので、そういう時は、部屋にじっとしているに限るのだった。そして光線を厭《いと》うように二人で下宿の部屋に閉じ籠《こ》もっている時の憂鬱さを考え、それがあたかも人生の究極絶対の法悦ででもあるかのように遊戯に耽《ふ》ける時の、不健康さの無駄な繰り返しを思ってみるに限るのであった。
首相の放送を終りまで聞かずに、庸三はやがて明るい表通りへ出て来た。そしてそういう時には、独りで歩くのもまた楽しかった。
葉子の身のうえに、今までにもかつてなかった、おそらく今後にもあるまいと思われる恋愛事件の発生したのは、翌年の春のことだったが、それは環境と年齢と柄合いから見て、二人にとってきわめて自然の成行きであり、魔の翅《はね》のような予感は前から薄々影を落としていた。庸三はそれを希《ねが》わないだけに、わざとしばしば擬装的な示唆《しさ》を与えてみたのだった。
「あの男ならうまく行くに決まっている。」
しかし彼もまるきり否定しているわけでもなかった。どうせ離れて行くなら、つまらないものの掌《て》に落ちるよりも、行きばえのする相手に落ち着いた方がいいという考え方もないわけではなかった。利己的である一方、自分の息のかかったものを泥《どろ》に塗《まみ》れさせたくないという気持もあった。それは鬩《せめ》ぎ合うほど極端なものでもなかった。いずれも人間にありがちな感情だと言うよりほかなかった。
庸三
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