て行ったが、やがて帰って来ると、困惑した顔て支度《したく》をしはじめた。
「秋本さんの番頭さんが来たのよ。」
このごろになって、葉子がいろいろに手を廻して、彼を引き戻そうとしていることは、庸三にも解っていた。そうなることをも希望していた。しかしまた葉子はどうかすると、庸三の唆《そその》かしに乗ったふうにして、小河内の自宅へ電話をかけ、夫人と辞礼を取り交すこともあった。
「何だい、旦《だん》つくはお留守だ。」
葉子は悪戯《いたずら》そうに首を悚《すく》めながら、電話口を離れて来るのだった。
しかし何といっても秋本の方にまだしも脈がありそうに思えた。今秋本が彼女の動静を探らせに、わざわざ番頭を寄越《よこ》したとなると、場合は葉子に不運であった。
やがて下宿の別室で、葉子は番頭に逢ったが、昨夜の彼女の居所を、すでに感づかれているようにも思えた。
「仕方ないからよそへ原稿書きに行っていたと言って胡麻化《ごまか》して、御馳走《ごちそう》して帰したわ。」
忘れものの手提《てさげ》もあって、番頭を送り出すと、じきに舞い戻って来て庸三に報告するのだった。
「悪いところへやって来たもんだな。」
葉子は今起きたばかりの庸三の傍へ来て、空洞《うつろ》な笑い声を立てたが、悄然《しょんぼり》卓子《テイブル》に頬肱《ほおひじ》をついている姿も哀れにみえた。
やがて多事だったその年も、クリスマスが近づいて来た。庸三は時に葉子の下宿の方へ足の向くこともあったが、そのころになると、彼女の窓の赭《あか》いカアテンに、例のスタンドの明りが必ず映っているとも決まらなかった。
「また何か初まる。」
庸三は六感を働かせながら、賑《にぎ》やかな通りの方へ引き返すのだった。
二十三
表通りも賑やかだったが、少し入り込んだところにある下宿へ行くまでの横町は、別の意味で賑やかであった。表通りは名高い大きな書店や、文房具屋や、支那《シナ》料理などの目貫《めぬき》の商店街であったが、一歩横町へ入ると、モダアニズムの安価な一般化の現われとして、こちゃこちゃした安普請のカフエやサロンがぎっちり軒を並ベ、あっちからもこっちからも騒々しいジャズの旋律が流れて来るのだった。庸三はせっかく行ってみても、葉子がいなかったりすると、張り合いがないので、なるべくなら行かないことにしていたが、彼女の動静はや
前へ
次へ
全218ページ中190ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング