んも沢山あるのだから、もうお母さんのことを言ってはいけない。その代り貴女《あなた》には兄さんも姉さんも多勢いるのだと、庸三が一度言って聞かすとそれきりふっつり母のことは口へ出さなくなってしまった。しかしどうかするとむずかるらしく、剪刀《ナイフ》を投げられたりするから、あれは直さなければと葉子は笑いながら庸三に話すのであった。
「おばちゃんの足|綺麗《きれい》ね。」
風呂で彼女は葉子の足にさわりながら言うのだったが、夜は葉子に寝かしつけられて、やっと寝つくことも多かった。彼女は茶の間や納戸《なんど》に、人知れずしばしば母を捜したに違いないのであった。しかし庸三は、自分の不注意で、一夜のうちに死んでしまった長女のことを憶《おも》うと、我慢しなければならなかった。恋愛にも仕事にも、ロオマンチックにも奔放にもなれない、臆病《おくびょう》にかじかんだ彼は、子供を突き放すこともできない代りに身をもって愛するということもできなかったが、生涯のこととか教育のこととか、一貫した誠意や思慮を要する問題は別として、差し当たり日常の家庭にできた空洞《くうどう》は、どこにも捻くれたところのない葉子が一枚加わっただけでも、相当紛らされるはずであった。二十五年もの長いあいだ、同じ軌道を走りつづけていた結婚生活を、不自然にもさらに他の女性で継ぎ足して行くことの煩わしさは解っていたが、加世子の位牌《いはい》を取り片着けて間もなく、彼は檻《おり》の扉《とびら》を開けたような気もしたのであった。
「さっそく困るだろ。君だって多勢《おおぜい》の子供をかかえて、仕事をしなくちゃならない。――待ちたまえ、僕にも心当りがないことはない。」
葬儀委員長であった同じ年輩の鷲尾《わしお》は言うのであった。庸三は彼が目ざしているらしいものよりか、少しは花やかな幻を、それとなく心に描いていたものだったが、それは単に描いてみたというにすぎなかった。彼は堅く結婚を否定していた。今からの結婚が経済的にも精神的にも、重い負担であるのはもちろんであった。子供だけで十分だった。
窓帷《カアテン》をひいた硝子窓《ガラスまど》のところで、瀬戸の火鉢《ひばち》に当たって小説の話をしていると、電話がかかって来て、葉子は下へおりて行った。
「一色?」
部屋へ入って来た時の葉子の顔で、庸三は感づいた。
「自動車を迎いによこすから、ちょっ
前へ
次へ
全218ページ中18ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング