命《いのち》を取られる虫のような焦燥《しょうそう》もいつか失われていたので、電話の刺戟《しげき》はあったけれど、心は煮えきらなかった。いつまでこんなことがつづくのかと思われた。
ちょうど晩飯時分だったので、まだ店を開いて間もないほどのモナミは人が一杯であった。いつも二階なので、階段を上がりざまに下へ目をやると、そこに見知りの女の顔が擽《くすぐ》ったそうに笑っていた。庸三は笑《え》みかえす余裕も失って、そのまま上がって行ったが、食堂はがらんとしていて、葉子もまだ来ていなかった。窓ぎわの食卓に就《つ》いて、煙草《たばこ》を一本ふかしたころに、やがて葉子が現われた。
「ごめんなさい、ちょっと、ハルミへ寄ったものだから。」
葉子はあの時のことを想《おも》い出しもしないふうだったが、いくらか気が置けるらしかった。庸三も気が弾《はず》まなかった。
「結婚はどうなったかしら。」
「家がいつ売れるか知れないんですもの。その間私たち黒須さんの家《うち》へお預けでしょう。」
葉子は苦笑していたが、そこへ青磁色したスウブが運ばれた。ナプキンを腕にした、脊《せ》の高い給仕が少し距離をおいて立っているので、話はそれきりになった。
「逗子の海ももうすっかりさびれてよ。もうあの人もやって来ませんから、先生お仕事をお持ちになってまたいらしてね。私の名誉|恢復《かいふく》のためにも当分それが必要だとお思いにならない? 御飯たべたら活動でも見て、一緒に行って下さるわねえ。」
「行ってもいいけれど……。」
チキン・ソオテにフォクをつけながら、庸三は生返事をした。ああした事件の後の、葉子の海岸の家を考えるとなおさら憂鬱《ゆううつ》であった。
ちょうど葉子がパフをつかってから、二人で食卓を離れるころに、客が一組あがって来たので庸三は急いで階段をおりた。あの事件以来、彼は一層肩身の狭さを感じた。
この先き庸三との関係がどのくらい続くものかは、葉子にも見当がつかなかったが、どんな場合にも――たとい彼女と第三者とのあいだに、さらに新しい恋愛が発生したとしても、師は師として崇《あが》めると同時に、庸三も苦しいなりにもとにかく師父としての立場で愛情と保護を加えることを惜しまないであろうことを期待したのだったが、結果があんなふうになった以上、当分庸三を擬装の道具につかうよりほかなかった。彼女は腫《は》れも
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