「私おもちします。」
 北山はそう言って、彼の手から折鞄を取ろうとしたが、庸三はステッキを振り振り、暗い路《みち》を急ぎ足で歩いて行った。温かい雨がぽつりぽつり顔を打ちはじめた。そして日陰の茶屋まで来てみると彼もひどく息がはずんでいた。
 二階の部屋に納まったころ、入口で葉子たちと女中との話し声がしていたが、下の風呂場《ふろば》へおりて行った時分には何の気配もしなかった。
 滋《しげ》くなって来た雨の音を聴《き》きながら、心の穏やかでなかった庸三は、うとうと微睡《まどろ》んだと思うと目がさめたりして、そこに侘《わび》しい一夜を過ごした。

      十七

 翌朝床を離れた庸三は、僅かの時間しか熟睡できなかったので、まだ目が渋く頭がもやもやしていた。夜来の雨に潤った新緑の鮮やかな庭木が、きらきら光って、底ふかい空の青さにも翳《かざ》しがなかったが、心臓の弱い庸三はいつもこういう場合の癖で、ひどく濁りっぽい気持になっていた。
 葉子の入院の前後、隣りの下宿の部屋にいたり、庸三の書斎へ来ていたりしたころには、喧嘩《けんか》をするたびに、葉子が部屋を飛び出して行くことになっていたが、今庸三は自分で追ん出た形で、何か恰好《かっこう》のつかない感じだった。潔くここを引き揚げたい気持もしながら、やっぱり思い切りが悪く、後ろ髪を引かれるのであった。一度かかった係蹄《わな》から脱けるのは、彼にとってはとても困難であった。彼は自身の子供じみた僻《ひが》みっぽい魂情《こんじょう》を、いくらか悔いてもいたが、とかく苦悩と煩いの多いこの生活を、一気に叩《たた》きつけるのも、彼女に新らしい恋愛もまだ初まっていない、こんな時だという気もしていた。しかしそういう時はまたそういう時で、とかく切り棄《す》てにくいのであった。嫉妬《しっと》は第三者が現われたときに限るのではなかった。葉子のような天性の嬌態《きょうたい》をもった女の周囲には、無数の無形の恋愛幻影が想像されもするが――それよりも彼女自身のうちに、恋愛の卵巣が無数に蔓《はびこ》っているのであった。
 不用意にも、ちょうど彼は財布が少し心細かった。葉子のところへ行けば何でもないことだったし、宿へ断わって出ればそれでもよいわけだったが、世間の非難と嘲笑《ちょうしょう》を一身に集めたような葉子との関係にも、肩身の狭い思いがしているので、少しば
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