せた。
「ほんとうにやる気かしら?」
 庸三はそんな気もしたが、郊外の町のホテルに彼を置き去りにした時の、何かに憑《つ》かれたような気分はどこにも見られなかった。花火線香のような情火が、いつまたどんな弾《はず》みで燃えあがるまいものでもなかったし、新らしい生活に一時飛びつくような刺戟《しげき》を感じはしても、じきに飽きの来ることも解っていないことはなかったが、それはその時にならなければ、やはり解らないことであった。それに庸三は、生活の責任を回避しながら――それには現実に即しえられない彼女の本質的な欠陥があるという理由があるにしても――彼女の愛を偸《ぬす》もうとする利己心を、性格のどこかに我知らず包蔵していた。もっと悪いことには、自身の生活にある程度|創《きず》がついても、知るだけのことは知りたいと思った。無論それも頭のうえの口実で彼の気持はもっと盲目的に動いていることも、争えなかった。葉子を通して、彼は微《かす》かな触れ合いで済んで来た、過去の幾人かの女性にも目が開いて来た。
 二方庭に囲まれた奥の八畳で、何か取留めのない晩餐《ばんさん》がすんで、水菓子を食べながら、紅茶を飲んでいる間に、風呂《ふろ》も湧《わ》いて来て、庸三は八重子に背中を流してもらいながら湯に浸った。
 やがて瑠美子が寝てしまうと、環境もひっそりしてしまって、浪《なみ》の音が聞こえて来た。
「海へ出てみません?」
 葉子が誘うので、ステッキをもって門を出た。ホテルの入口がすぐそこにあった。
「もしラジオをお聴《き》きになりたかったら、ホテルで聴かれますのよ。」
 葉子はそう言って、ホテルの裏の小路をぬけて浜へおりて行ったが、このホテルの内容や、マスタア夫妻の生活や人柄についても、すでに感じの細かい知識をもっていた。
 海は暗かった。堆高《うずたか》い沖の方が辛うじて空明りを反映させていた。それに海風も薄ら寒かった。葉子は口笛を吹きながら、のそりのそりと砂浜を歩いていたが、ふと振り返ると、マッチをつけかねていた庸三に寄り添って、袖《そで》で風を遮《さえ》ぎった。
「楽しくはない?」
「そうね。」
 葉子は夢の中を歩いているような、ふわふわとどこまでも渚《なぎさ》を彷徨《さまよ》っていたが、夜の海の憂愁《ゆうしゅう》にも似た思いに沈みがちな彼女とは、全く別の世界に住んでいるような、相手が相手なので、何
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