であった。彼は長いあいだの家庭生活にも倦《う》みきっていたし、この惨《みじ》めな恋愛にも疲れはてていた。心と躯《からだ》の憩《いこ》いをどこかの山林に取りたいとはいつも思うことだが、そんな生活も現代ではすでに相当|贅沢《ぜいたく》なものであった。
一盞《いっさん》の葡萄酒が、圧《お》し潰《つぶ》された彼の霊ををとろとろした酔いに誘って、がじがじした頭に仄《ほの》かな火をつけてくれた。そして食事をすまして、サルンのストオブの側に椅子《いす》を取って煙草《たばこ》をふかしていると、幾日かの疲れが出たせいか、心地《ここち》よく眠気が差して来た。
やがて彼は部屋へ帰って、着物のままベッドに入った。この場合広いベッドに自由に手足を伸ばして、体を休めることが、彼にとって何よりの安息であった。
庸三は葉子が帰って来るようにも思えたし、帰って来ないような気もして、初めはむしろ帰って来ない方がせいせいするような感じだったが、うとうと一と寝入りしてから、およそ一時間半も眠ったろうか、隣室の客が帰って来た気勢《けはい》に、ふと目がさめると、その時はもう煖炉《だんろ》を境とした一方の隣りにあるサルンにも人声が絶えて、ホテルはしんと静まりかえっていたので、事務室の大時計のセコンドを刻む音や、どこかの部屋のドアの音などが、一々耳につきはじめて、ふっと入口のドアの叩《たた》く音などが聞こえると、それが葉子であるかのように神経が覚《さ》めるのだった。
何時ごろであったろうか、病人のように慵《ものう》い神経が、ふと電話のベルに飛びあがった。りんりんと続けさまに鳴ったが、ボオイたちもすっかり寝込んでいると見えて、誰も出て行くものがなかった。宿泊人はいずれも朝の勤めの早いサラリーマンなので、こんな遅くに電話のかかって来るはずもなかった。庸三は多分葉子だろうという気がして、よほどベッドを降りようかと思ったが、意識がぼんやりしていたので、それも億劫《おっくう》であった。するうち彼はまたうとうとと眠ってしまった。
翌日庸三はそこを引き揚げて、しばらくぶりで書斎へ帰って来た。からりと悪夢からさめたような感じでもあったが、頭脳のそこにこびり着いた滓《かす》は容易に取れなかった。そして机の前に坐っていると、不眠つづきの躯のひどく困憊《こんぱい》していることも解った。彼は近所の渡瀬《わたせ》ドクトルに来ても
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