た庸三にも、この怖《お》じ気《け》もない葉子の悪戯《いたずら》には、目を蔽っているわけには行かなかった。彼は少し興奮していた。そして彼への原稿の依頼をかねて、葉子にも何か短いものをと、記者が話し出した時にいきなり侮辱の言葉を浴びせた。
「こんなものに何が書けるものか。」
「いや、しかし先生の目が通れば……。」
「僕は御免ですよ。」
 庸三はこの場合博士の前で、莫迦《ばか》げた道化師にされた鬱憤《うっぷん》を、それでいくらか晴らしたような気もしたが、記者につづいて、博士が辞して行ったあと、一層憤りが募って来た。彼はベッドの傍《そば》を往《い》ったり来たりしながら、葉子を詰《なじ》った。葉子はそれについては、弁解がましいただの一言も口にしなかった。
 やがて庸三は原稿紙や雑誌や、着替えのシャツのようなものを、無造作にトランクに詰めはじめた。そして錠をおろすと、ボオイを呼んでビルを命じた。
「K――さん名誉ある人ですから、それだけはお考えになってね。」
 葉子は目に涙をためながら哀願した。
「それに先生も少し邪推よ。後で話しますわ。」
 勘定をすますと、庸三は重い鞄《かばん》を提《さ》げて、いきなり部屋を出ようとしたが、駅まで行くには車を呼ぶ必要もあった。懇意になりかけたマスタアやボオイたちの手前、病人の葉子を置き去りにするのも、体裁が悪かった。K――博士との関係が、どこまで進んでいるかも気懸《きがか》りであった。何よりも適当な時機に、衷心から釈《と》け合うことは望めないにしても、表面だけでも来た時のようにして一緒に帰りたかった。一人帰れば、あの寂しい書斎でやる瀬のない一夜を、おちおち眠ることもできずに苦しみ通すに違いないのであった。
 庸三はやがて食事を部屋へ持ちこませて、フォクを執ったが、葉子はコンソメの幾匙《いくさじ》かを啜《すす》って、オレンジを食べていた。
「御免なさいね。」
 葉子はそう言って、またベッドに仰向きになった。庸三は赤々と石炭の燃えているサルンへと出て行った。

 間一日おいて、ある日の午後葉子はしばらくぶりで、踊りの師匠に内弟子として預けてある瑠美子の様子を見に行きたいとかで、ちょうど遊びに来合わせていた二人の青年と一緒に出て行った。青年たちが省線で帰るにつけて、ふと思いついたふうにも見えたが、庸三もいつもの気持で送り出しもしなかったし、葉子も何
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