ようであったが、中には着いたばかりで、借家を捜すあいだの仮りの宿として、幾箇《いくつ》かのトランクを持ち込んで来る新婚の夫婦もあった。庸三が一日に何度となく、跫音《あしおと》を偸《ぬす》むようにして、廊下へ出て行く葉子の動静に気を配ることを怠らなかったのも、一つはそのためでもあった。
ある時はまた、そっと玄関に近い事務室の傍にある電話口へ出て行って、どこかへそっと電話をかけているのではないかという彼女の気配が、微《かす》かに感じられるような気がしたりしたが、夜はいつまでもラジオを聴《き》いていることもあった。
来客などのあった時とか、または少し離れたところに、名高い女流作家と異《かわ》った愛の巣を造っている若い作家を訪れたりした時には、庸三はホテルの人たちが寝静まったころに、やっと原稿紙に向かうことができた。彼はしばしばサロンの外人たちの間に交じって、彼女と一緒にお茶やケイキを食べたが、彼自身も今少し度胸があったら、何か話したそうにも見えるそれらの人たちと言葉を交したい方であった。
するとある夜葉子は、いつもの神経的な発熱でベッドに横たわりながら、本を読んでいたが、うとうとしていたかと思うと、ヒステリカルに彼を呼んで白い手を伸ばした。昼間葉子は庸三の勧めで幌車《ほろぐるま》に乗って町の医院を訪れ、薬を貰《もら》って来たのであったが、医者は文学にも知識をもっているヒュモラスな博士《はかせ》で、葉子の躰《からだ》をざっと診察すると、もうすっかり馴染《なじみ》になってしまった。しかしこの場合葉子に利くのはその処方ではなかった。
庸三も何となしこの生活に疲れていた。新聞一回書くのにも気分が落ち着かなかった。葉子が病気になると一層|憂鬱《ゆううつ》であった。彼は葉子を落ち着かせるために、側へ寄って行くのだったが、彼女はいつも啜《すす》り泣いているような表情で、目も潤《うる》んでいた。
「先生も可哀《かわい》そうな人ね。」
葉子はそう言って、彼の手を取ったが、この重苦しい愛着の圧迫に苦しんでいる、それは彼女の呻吟《しんぎん》の声でしかなかった。
「お察しの悪いったら……。」
彼女は心に呟《つぶや》いているのだった。
翌日も熱発が続いた。そして日の暮近くになってから、我慢しきれなくなった葉子の希望で、K――博士に来診を乞《こ》うことにした。
縫紋《ぬいもん》の羽織
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