のだった。
ある晩も二人は行きつけの小料理屋の一室で、食事をしていた。庸三はどこへ行っても、床の間の掛軸や花瓶《かびん》などに目をつける習慣になっていて、花の生け方などで料理がひどく乱暴なものか否かを大体|卜《ぼく》するのであったが、今そこに蕪村《ぶそん》と署名された南画風の古い軸がかかっていたので、それが偽物だということは、絵柄と場所柄でわかるにしても、ひょっとすると掘出し物ではないかという好奇心も手伝って、無下に棄《す》てたものでもなさそうなその絵を幾度となく眺め返していた。彼は逃げようとして絶えず隙を覗《うかが》ってでもいるような、何かぴったりとしない葉子の気分に、淡い懊悩《おうのう》と腹立たしさを感じながら、それを追窮する勇気もなく、それかと言って器用に身を交《かわ》すだけの術《すべ》もなく、信じないながらにわざと信じているようなふうをして、苦悩の泥濘《でいねい》に足を取られていた。それというのも、そういう場合の彼女の媚態《びたい》が、常よりも一層神経的でもあり煽情的《せんじょうてき》でもあって、嫉妬と混ざり合った憎悪と愛着の念が、彼を一種の不健康な慾情に駆り立てたからで、お互いに肉情的な泥《どろ》仕合いに爛《ただ》れているのであった。
その夜も庸三は少し不機嫌《ふきげん》になっていたが、どうかした拍子に、
「先生私をあまり重荷にお思いでしたら……。」
と葉子はふとそう言って、寂しそうな表情をしていた。
庸三は何か別のことを考えていたので、その言葉をはっきり聴《き》き取ることもできず、その意味を問い返すだけの意識もなくて、押し黙っていたが、彼女の背後にあるものの影が、仄《ほの》かにぼかされていた。
サルンに人のいない時、葉子は時々読んでいる本を伏せて庸三の傍《そば》を離れた。庸三は高すぎるくらいの卓子《テイブル》に向かって、廻転椅子《かいてんいす》にかけながらペンを執っているのだが、姿の見えぬ彼女の一挙一動を感知しようとするもののように、耳を澄ましていた。かつて彼女は、庸三の家へ入りたてのころに、独りで帝国劇場へ女優劇か何かを見に行ったことがあった。その時多分彼女のどうかした表情が、その結果を生んだものであろうが、隣に座席を取っていた米国人らしい若い一人の紳士が、覚束《おぼつか》ない日本語で彼女に話しかけた。双方の言葉が通じるというわけには行かなか
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